話が前後するが、萩には菊ヶ浜というほど良い広さの美しい砂浜をもつ海水浴場がある。 暑さの中ちょっとのぞきに行ったが、特に工夫もない。 ここだと美味しい魚介類も採れるのだし適度に山もあるのだから、プライベートビーチのある、洒落た
オーベルジュなんか作ったらもっといいのにな、と思ったりした。 北門屋敷というこぎれいな旅館ができたくらいだから、もう少し歴史にばかり拘らなくても軽い感じのお店が増えると楽しくなる。
また話しが戻るが、松田屋の食事 レベル高い。
最初の写真夕は食の最初の向付と煮物碗。
次は珍しい月日貝。
山口県の詩人
金子みすずの詩「月日貝」抜粋だがこんな美しい表現があるそう。
「日ぐれに落ちたお日さまと、夜あけにしずむお月さま、逢うたは深い海のそこ。
ある日漁夫にひろわれた、赤とうす黄の月日貝」
こちらは朝のお膳。 こなれた献立に、別にふぐの一夜干がつく。
あまりの暑さに、昼中に小野田に向かうのは辛いので、
山口市内の県庁舎にある図書館で涼む。 ともかくお店も少ないので、観光に飽きたら、時間を潰すのには良いかも。 しばし学生もしくはお年寄り気分に浸る。 どうやら「長州ファイブ」という幕末に密航してロンドンや
グラスゴーに留学した5人の
長州藩の若者について映画を日英合作した(あるいは製作中)らしく、簡単な資料が展示してあった。
伊藤博文、
井上馨、他3名なのだが、真剣に勉強していた節があるのは1-2名で、知名度からいったら先の二人がダントツ。 しかし彼らときたら1年くらいしか行っていない。 それって今の語学留学と同じではないのか? 造船を学んだという人は5年くらいイギリス各地で学んだようだから、本格的にずいぶん努力したのだと思う。 有名になる人ってなんだか調子がいいよな、と思う。 それも能力のうちだろうけれど・・。 映画どこかで上映されるようだったら見てみたいものだ。
1時過ぎて昼時なのでどこかでお昼を食べようということになったが適当なところがなく、ウロウロして偶然みつけた
山口駅近くのフレンチ・レストラン(ちょっと良さそうという鼻が働く)へ入る。
写真のランチのサラダ盛り合わせと冷えたワインが大正解だった。 古いフランスの写真が貼ってあるのでたずねたところ、70年代に若い頃フランスで働いていたとのこと。 パリ郊外ベルサイユのお店「エスコフィエ」の写真だった。 今でも冬になると年に一回フランスに旅行に出かけるのだそう。 自家製の渡り蟹のテリーヌ、豚足のゼラチン寄せ、鹿のテリーヌ、ソーセージなどで1000円也。 美味しかった。
デザートのクリーム・ブリュレとバニラアイスの盛り合わせも、特別奇を衒っていなくて自然な感じ。 キッシュは自家製ベーコンは良かったけれど、あまりお菓子は力を入れていないのか、まぁ普通である。東京でお店を出すよりも地方の方が無理が無く一人でやり易いのかもしれない。 店内もカウンター式で10名で一杯になるこじんまりとしている反面、入り口にテークアウトができるケースがあり、しかも厨房やキッチンは広めにゆったりととってあり、お店を持ちたい人にとっては羨ましいペースで仕事ができそう。
山口駅からJRで30分ほどで小野田に着き、だいぶ涼しくなった5時頃お墓に行きお参りする。 義父が育った家はもう無いが、敷地続きの本家にあたるお宅に毎回お邪魔する。
維新の前後は、本当にどこの地方も激変する時代の只中で、大変な犠牲が歴史の資料に残されることもなく払われたことと思う。
維新時に名前を残した人たち以外にもその渦に巻き込まれていった人たちが大勢いた。
大政奉還後、不満をもった士族たちの反乱が各地で起こったらしい。 代表的なものが九州の
薩摩藩で起こった
西南の役。 父方の曽祖父もそういった反乱軍に入った1人で日本史の教科書の中で
萩の乱と呼ばれる反乱に参加し、若干20そこそこで戦死したという。 首謀者の名前をとって別名「
前原一誠の乱」とも呼ばれる。
そして、いつも通っているのに気づかなかった本家の前の碑に
この
前原一誠旧宅跡という字を見つけて、私は本当に背筋がひんやりとした。
どうやら、夫の元々の実家の敷地付近に、その反乱軍の首謀者が遠く離れたその土地で潜伏していたらしいのである。 聞けば、どうもその家で匿ったという話もあるそう。
山口県という土地柄、そんな話は沢山あるのかもしれないけれど、あまり迷信を信じない太刀なのに、真夏の8月の怪談趣味にぴったりの、何かの因縁を感じてしまった2日間である。
しかし。 話しが長くなったついでだが、明治に入ってそういう長州閥と呼ばれる中で誰が一番うまくやったかというと、最近思うのは
山県有朋である。 萩の地図をみていると、案外下っ端の方の人が住みそうな出身のこの人、あまり日本史に詳しくないが、京都の瓢亭の近所にも邸宅を構え、また目白の椿山荘の庭も東京の邸宅。 戦後からついこの間までも山縣家は九段のお屋敷に住んでいたようだ。
松下村塾は、
長州藩のエリートたちを集めた塾では決してなくて、近所のそれほど秀才でもない子供たちを集めて教育した私塾である。 その中の秀才たちは途半ばで戦死していくのだが、
どちらかというとその流れに乗って伸びていった人たちの方が最後に(勿論功績も多くあるけれど)残ることになる。
あまり趣味の良くない考え方かもしれないが、純粋に燃え尽きるよりも、
山県有朋のような生き方(よく知らないけど)いいんではないか。 と中年になった私は深く思う。