下関 功山寺の墓

 集作の養子先は、旧長府藩の藩士で昔は500石取の名家だったが、御一新の波に乗り切れずすっかり落魄して貧乏と孤独にうちひしがれた70歳くらいの老人がいた。その本人甚五左衛門の父は大舘啞禅ということだが、戸籍には子供も妻もいない。その家の名前を継ぎ、同時に西田徳次の姉ツネと結婚し、老人を扶養した。

 亀の甲という場所から、ほどなく谷山に移り、集作は農作をし、ツネは士族のでながら、機織りをした。集作40歳、ツネ29歳。

 明治42年から甥長谷川栄次が長府中学に入り、希典の頼みにより預かる。

 希典自刃の直前大舘夫妻は兄より東京に呼び寄せられる。後事を託すつもりであったのだろう。遺言により那須野別邸は集作夫婦に譲られる。

 石林(那須野)の別荘は敷地三段余、田畑三町歩、山林十三町、谷山を処分して甚五左衛門とツネを伴って移り住んだ。大正三年7月甚五左衛門は養子夫婦にみとられ79歳で没した。

 長谷川久次は、大舘家が谷山を引き上げるときに府立第四中学に転校したが、海軍兵学校の入学準備中病を得て、大正5年9月石林の大舘家で療養中亡くなった。久次は身体も丈夫で頭も良かったので、母親のイネの悲嘆は大きかったという。

 大舘家代々の墓は功山寺にある。集作は晩年を兄希典の遺産となった那須野の別荘で過ごし東京で亡くなったので、墓は住居のあった那須野にもある。今はその那須野の別荘は、那須乃木神社となっている。

 

 功山寺のやや小高いところに大舘家の墓所がある。当時は立派な先祖代々の墓であった。大舘集作が亡くなった後は、甥玉木正之の次女(正確には次女の蔦子が早逝したので三女)艶子が跡をたてたが、その後艶子が結婚のため、次男正信が大舘家を名跡だけ継いでいる。功山寺には、兄希典の幼馴染みでもあり、集作の良き理解者でもあり、希典の死後万事指図をしていた桂弥一も葬られている。

 現在は私の弟正宏が大舘家を名乗るが、遠方でお墓は那須野を管理するにとどまっている。現在の大舘家で管理できないものを、功山寺の墓は長府乃木神社の若い松吉宮司が毎年掃除をし世話をしてくださっているとのこと。どこかの時点で整理をしなくてはいけないのだろう。