儒学者の一族

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玉木文之進や吉田松陰は山鹿流兵法学者だった。山鹿素行はこの山鹿流兵法の祖であるが、古学派の祖でもあった。古学派とは、漢・宋以降の中国の儒学者の解釈に頼ることなく、孔子孟子の原典に直接触れその真意を読み取ろうとしたことに特徴があるという。翻訳や第三者の介在を避けて原典主義に徹したということか。

兵法の研究だけではなく、儒学者として当時の支配階級である武士の在り方を説いたのが山鹿素行であったようだ。この精神は玉木やその周囲の人たちに共有されるものであった。玉木に少年時代を教育された乃木希典も特に晩年は中朝事実を手離さなかったと伝えられている。

 

明治以降の教育や価値観を手に入れた後世の人たちからみると、行動そのものが奇異にみえる人たちの根底にはこの影響が大変あった。ちなみに、吉田松陰の実家である杉家の婿たちは儒学者である。楫取素彦や杉相次郎は儒学者の出身と聞いた。また、先日調べていたところ、乃木希典の妻である静子夫人の実家湯地家ももともと儒学者であった。明治に入り、教育制度が変わったことで、儒学または国学は廃れた。

儒学者の役割の中に、外交交渉や民政も含まれている。玉木文之進や松陰の兄で杉家の長男にあたる杉修道(民治)は地方自治に非常に貢献したとされている。また楫取素彦も萩毛利家の交渉役を務めている。ちなみに幕府の役人でもペリーとの交渉などは儒学者出身者が担当していた。幕府応接係林大学守(林復斎)は林羅山から数えて11代目の朱子学者だ。

儒学者の立場や役割は非常に興味のあるテーマだ。