萩の乱(前原一誠の乱)

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玉木真人(1854-1876)玉木真人正誼は萩藩士玉木文之進の養嗣子となったが、明治9年11月1日萩の乱で戦死した。明治5年ごろの写真(小野為八撮影)

 

曾祖父の記録はあまりない。

この不満士族の乱という言葉で語られる内乱も、子供の時から、ナンセンスだと思っていた。杉民治の一人息子小太郎も、亡くなった叔父松陰の吉田家を再興して継いでいたが、この内乱に参加し、数え19歳で亡くなっている。小太郎の写真も蔵書の中にあったが、まだ10代初めのあどけない顔をしている。真人(民治長女豊と結婚)と小太郎は義兄弟で、民治次女滝の夫杉相次郎も乱に参加している。萩に残った松下村塾関係者は前原一誠を担いでしまった。

中央政府の方向性が彼らが目指した維新とは違うということからこの乱を企てたようであるが、この動きはもともと危惧され、またかなり正確に中央は情報を掴んでいた。

 

しかし、写真を見ると、まだ10代の若者たちであり、彼らは何を正義だと思ってしまったのかと調べて行きたい気持ちが強くなった。

萩という場所は、また一連の佐賀や鹿児島の状況は、遠く世界や全体を見た東京に出て行った者たちとは違う様相を呈していた。

結局、情報戦でも兵力でも全く勝ち目がなく、あっという間に彼らは敗者となった。

今の感覚からするとよくわからない一連の行動は「時代遅れ」とはいえ、攘夷ではなく列強に追いつけ追い越せと産業化と富国強兵に舵を切り出した政府とは、見える先が大きく違っていたのだろう。ロマンがあるが、勝機はあると思っていたのだろうか。

 

まだ明治の初めは江戸時代に題材をとった、浄瑠璃や歌舞伎をみてもよくわからない義理人情の世界が当たり前の時代だった。