乃木玉木の家紋について

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こちらは女性紋。

20代の頃から日本料理を習っていて、その先生は日本流に家元制の形をとっているので、お免状を戴く時に、無地の着物に揃いの帯を締めることになっている。

折角だから実家の紋を入れようと、母に聞いたら送ってくれたのが、この家紋で婦人の衣服に用いと書いてあった。着物を誂えたことは殆どないので、楽しく生地を選び、色も選んで染めてもらった。

他に、着物を入れる葛籠が欲しくなり、京都にある葛籠屋さんにお願いしてこの紋を入れている。

 

20代、30代を忙しく過ごしたので、20代後半から習いだした日本料理も何度か中断し、ようやく40代後半で一区切りつくことができ、着物にも触れる機会を得た。

そして、最近、さらに気持ちに余裕ができ雑文を書いている。

家紋は男紋と女紋があり、毛利綱元公より拝領の紋とあるが、インターネットで検索してみると、この紋について調べているものがあった。祖父の名前で乃木玉木の紋について調べたとのサイトがあった。

レファレンス協同データベース

玉木は26代乃木伝庵の長男政春が、母「たまき」の勲功により玉木姓を賜り、新しく興した家だという。その縁で家紋は乃木家と同じ紋を使用していることになる。系図上も代々養子相続が多い。以下に引用する略伝の通り、佐々木姓とも関連があり、同様の紋が使われている。

 

伯父のまとめた家史を以下引用。

”玉木家史略伝”

 玉木家は宇多源氏を先祖とする。宇多天皇の第八皇子敦実親王を初代として数え、三代扶義は近江国佐々木の庄に住し、佐々木と改姓し、近江源氏の祖となる。

 九代佐々木四郎高綱の次男光綱は、出雲国野木の郷に住し、野木と改姓し、十代野木光綱と称す。さらに降って二十代清高の長男秋綱は但馬国乃木谷に住し、野木姓を乃木と改姓する。二十一代乃木秋綱が乃木初代である。

 二十六代乃木伝庵は、藩医として長府藩毛利綱元公に仕え、禄高三百石を拝領する。伝庵の長男政春は、藩主の命により玉木姓を興し、毛利元重公の小姓役として、新規に召し抱えられて、元禄15年に毛利本家萩藩の家中となり、玉木家初代玉木政春と改姓する。

 玉木家七代文之進正韓(まさかぬ)は杉七兵衛常徳三男として生まれ、文政三年に十一歳で玉木家を養子相続する。毛利本家萩藩に仕えて、藩学明倫館塾頭、山城代官、郡奉行等を奉職する。天保十三年、三十三歳の時、萩松本新道の自宅に塾を開いて子弟の教育に従事する。この塾を松下村塾と称する。現在、玉木文之進旧宅は松下村塾発祥の地として保存されている。その後松下村塾安政四年に杉家宅を補修して、吉田松陰が教育にあたり、その門弟より多数の逸材を出したので有名である。文之進は、明治九年に萩の乱の責任をとり、玉木家墓所裏山の松林にて自刃する。

 正韓の長男正弘(彦助)は高杉晋作に従って正論党(御楯隊)に入り、俗論党の政権下にある藩軍と戦い、元治二年美祢郡絵堂において戦死する。

 玉木家八代正誼は、乃木希次四男として生まれ、慶応二年に十三歳で養子として入籍する。明治七年二十一歳のとき、杉民治長女豊子と婚姻する。正誼は、前原一誠首領とする萩の乱に与して、明治九年萩小橋筋において戦死する。正誼は乃木希典の実弟であり、妻豊子は吉田松陰の姪である。

 玉木家九代正之は父正誼の死後五カ月目に生まれた遺腹の子である。明治二十二年十三歳のとき、上京し、伯父乃木希典宅に起居して勉学する。明治二十九年二十歳で陸軍士官学校に入学し、三十一年陸軍砲兵少尉に任官する。以来累進して、従五位勲四等陸軍砲兵中佐になる。北清事変・日露戦役に従軍し、大正六年に侍命となり、それより後に予備役に編入されたが、昭和十六年、六十五歳のとき応召して、第二次世界大戦に参加、第十七野戦郵便隊長として、シンガポールに出征する。(途中省略)

昭和十年五十九歳のとき萩に帰郷して、先祖の墓碑の整理と、乃木家ならびに玉木家の家史編纂を行う。昭和二十九年、萩市自宅に於て脳出血にて死亡する。