杉民治

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松陰の兄、杉民治についてちょっとGoogleしてみました。

 

1828年(文政11年)萩市松本(まつもと)に生まれ、幼少期から父杉百合之助、叔父玉木文之進の指導を受ける。

1842年(天保13年)玉木が創設した松下村塾に学ぶ。また藩校明倫館に学ぶ。

1849年(嘉永2年)松陰から山鹿流兵学の伝授所を与えられた。 

1853年(嘉永6年)江戸湾警備のため相模国に出張する。

1854年(安政元年)松陰の下田韜晦未遂事件に連座、帰藩を命じられるも、郡奉行所勤務となる。

1859年(安政6年)松陰の江戸送りに連座し免職。

1860年(安政7年)家督相続を赦されて再登用

1863年(文久3年)御蔵元役所本締役となる。

1865年(慶応元年)藩内戦のさい東光寺組を結成、手廻組に加えられ、民政方御内用掛となった。

1868年(明治元年)当島・浜崎両宰判(萩市及び阿武郡の一部)の民生主事助役となる。

1869年(明治2年)民生に尽力した功により藩主から「民治」の名を拝領する。

1870年(明治3年)本郷に山代地域一帯の代官所(勘場)の最後の代官になり、ほとんど平地のないこの山代地域で、雑木林を切り開き、川の水を水路に流して米作りができるように、水田開発に偉大な功績を残した。代官所の門は、西照寺が譲り受けて寺院の山門としており、当時の様子を今に伝えている。

1876年(明治9年)職をとかれる。 この年10月に萩の乱

1877年(明治11年)退職隠居

1879年(明治13年)松下村塾を再興し、子弟の教育に尽力する

1889年(明治23年)教育改制に伴い松下村塾閉鎖。

         私立修善女学校長となり、子女の教育にも努めた。

1909年(明治43年)83歳で没

 

萩の乱で、実子吉田小太郎(松陰没後吉田家を再興する)と娘婿玉木正誼は戦死。杉家は窮乏を極める。娘婿杉相次郎や義弟楫取素彦玉木正誼の実兄乃木希典等がそれぞれ内外から親族を支えた。