偉人のかげに ② 希典と大舘集作 軍人と農業

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玉木家も乃木家も武門に生まれたものが軍人にならないなら百姓になれ、という家風があった。商人などもってのほかだった。

玉木文之進の開いた松下村塾は農業をしながら学ぶというスタイルだったので、希典もその薫陶を受けていた。

希典、正誼, そして集作の父である希次が明治10年病没する。その後、集作は希典の籍に入っているが、杉民治が再興していた松下村塾に入り同様の教育を受けた。

希典が軍旗の問題や、文之進や正誼の死や、出征中に亡くなった父のことなど、の辛さ悲しさにたびたび大酔し、前後不覚になっている。

長谷川君江氏によれば、明治11年3月から4月にかけての希典の日記には3月15日父希次の谷中の墓参り、また20日のくだりに「母君集作乃木太田戒行寺行」戒行寺は四谷寺町(須賀町)にあり、玉木乃木分家の墓所であったらしい(後年祖父正之が萩に墓をまとめたと口伝がある)。太田とあるのは太田市之進(御堀耕助)の血縁者か。

 その後、4月1日「長谷川ヲ添え集作ヲ同人社ヘヤル」とあり、その後8月に希典が結婚したので、明治11年4月以降松下村塾に行き、杉民治に師事した。

希典の詩に

 寄家弟在松下村塾

 刻苦悲惨感鬼神 履危寧復顧吾身

 請看烈士功臣述 不出尋常飽焔人

 弟に農業もするので、艱難に耐えて勉強せよと弟を励ました詩。

集作は頭脳も身体も人に劣ってはいないのに、厳しい家訓は百姓をするほか選択肢はなかったようだ。