玉木祖霊祭と夏みかん

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明治9年11月6日は萩の乱の責任をとって自刃した玉木文之進の命日。

松陰神社に年間行事の一つとしていただき、玉木の祖先たちを偲ぶ記念日としていたようだ。去年、父(伯父)の納骨をその日に合わせた関係もあり、玉木に縁のある従兄姉たちも集まり、内輪で静かに行っていただいた。

偶然、11月7日が萩博物館で新しい展示「兄松陰と妹文ー杉家の家族愛」(平成26年11月8日~平成28年9月4日)のオープニングイベントがあり、メールで萩博物館に問い合わせをしたいたこともあり、そちらにも参加させていただいた。

初めて真剣にみる。手紙の中には松陰が家族にあてたものもあり、留魂録にあらわされた神経質な右上がりの字ではなく、穏やかで几帳面な文字があった。その人のおかれた環境によって(特に留魂録のような切迫した状態では)文字も変わってくるのだろう。
杉文(楫取美和子)が、楫取素彦と結婚するときに、楫取が装丁しなおしたという涙袖帖(るいしょうちょう)もあった。これは最初の夫久坂玄瑞が文に送った手紙をまとめたもの。

個人的には萩の乱に興味があり、これによって不幸な最期を遂げた吉田小太郎(杉民治の長男で藩命により吉田家を継いだ)や、曽祖父玉木正誼について調べている。萩の乱は当時長州藩もなくなり、藩禄がなくなり失業状態になった士族やそれに関わる関係者にとって鬱憤が爆発した事件でもあり(他にもドロドロとした事情がありそうだが)、想像以上に多くの者が関わっていたことは記録からも確認されている。事後の、杉家の逼塞ぶりは想像に難くないが、もっとそれ以上に苦しい思いをした人たちがたくさんいたようだ。


そんな萩の乱がおこった年の春に、萩の士族の経済救済として、仕事を辞めて萩に戻ってきた小幡高正が夏みかん(当時は夏橙とよばれた)の植樹を始めた。小幡高正について、今の時点では詳しくわからない。萩藩の立場として松陰が刑死するとき陪席者であったということを伝え聞いた。杉家にとってはそのような因縁がある小幡高正が夏みかんの栽培を持ち込んだというのも興味をそそる。

今の感覚からすると、その経済効果はいかほどかと思われるが、昭和40年ころまではかなり有力な資源になっていたようだ。福沢諭吉が友人から送られた夏みかんをマーマレードに煮たというのも有名な話。

夏みかんの学名はCitrus Natsudaidai。江戸時代に山口県長門市仙崎近くの海岸に流れ着いた柑橘の実が始まりだという。時代に乗り遅れた士族がこの乱の後、どのように生計を立てていったのか、東京や大阪に移り住んで役人、軍人、医者、技術者、教育者になったものもあっただろう。そのほかにもたくさんの選択肢があったはずだ。商売や農業、観光業を始めた者もいただろう。夏みかんの栽培で生計を立て、萩に住み続けた人もいたのだろう。一つの時代の終わりとはじまりがあった。

松下村塾とはなんだったのか?

このタイトルをまとめられるようになるのがブログの目的だ。

外様の中では結構中堅どころの長州藩の城下町の外れでおこった私塾は、本来寺子屋のようなものから始まった。

しかし、その後、吉田松陰が自宅で始めた啓蒙活動が、結果的に維新の原動力になった若者たちを生んだ。そのことがまた刺激を生み、松陰の近親者の者たちにとっては一つの情念のように純化した原理主義的行動を促すことになった。私が調べたいのは安政の大獄があった後のその後の松下村塾の在り方でもある。

直観的にはその後の松下村塾はやはり時代遅れの攘夷思想が生んだ悲劇そのものである。そしてその中心人物の中に玉木文之進もいた。この人の考え方はいったいなんだったのか。仁政については功績もあったようだが、開国に関して世界の中にある日本という地域の進むべき道については大局観がまったくなかったのか?

価値観が動く時、それは全く違う現実が目の前に出てくる。

語るにはあまりにも知らないことが多すぎるが、今並行して読んでいるものを列挙する。

 

海原徹著 松下村塾明治維新 ミネルヴァ書房

奈良本辰也編 一番詳しい吉田松陰松下村塾のすべて 中経出版

諸井條次 萩の乱と長州士族の維新

 

 

一年祭

月曜日に玉木家最後になった伯父の一年祭を行いました。賑やかなことが好きだった人でした。祖父が一人っ子だったせいもあり、私の親たち兄弟は、祖父の従兄たちとも親しく付き合っていたのでした。特に萩の乱の後、曾祖母の豊子と妹の杉滝の家族はどんな思いで過ごしていたのでしょうか。滝の息子道助や、児玉千代も息子の吉田庫三とともに東京にいましたから、千代のひ孫や滝の孫たちも集まりました。系図を持って人間関係を確認している人もいました。伯父の母方の従兄や、甥姪なども集まりました。殆ど70歳以上の人ばかり。伯父が熱心にそういう縁を大事にしていたおかげで、葬儀をきっかけに、私もその方たちと親しくなることができたのは、うれしいサプライズでした。


初代からの歴史を調べているうちに、この幕末から150年の間、特に安政の大獄から明治10年にかけて、数々の試練を乗り越えてきた(男女や能力に関わらず)生き残りの子孫だったんだと思って、そこに集まって入り人たちに、そういうことをスピーチしました。万感胸に詰まる思いでした。ずっと、この会が終わると、晴れ晴れした気持ちになると思っていたのですが、自分としては最後の玉木という思いも強く、むしろこの二日間虚脱感です。
 今朝、近所の本屋で文の生涯を書いた本をみつけ「萩の乱」のところを立ち読みしました。2~3の間違いがあるものの、かなり詳しく当時の家族の状況を書いてあり、また胸が塞がれる思いでした。 
 日本に住んでいた人たちが、初めて外国の脅威を感じた時代、ナショナリズムが台頭したといいます。杉家と玉木家の人々は人一倍人情家でもあったようで、そういう波の中に巻き込まれていきます。伯父にとってはプライドの支えになっていたルーツですが、利や理が立つ生き方ではありませんでした。
今、大河ドラマで盛り上がっていますが、それを遠巻きに興味を持ってみている自分の立ち位置が不思議に思える一日です。人が大人になるのは、いくつなのかといわれると、自分の前にそびえていた人がいなくなったときかもしれません。

 

乃木さんの親戚について

 乃木神社の大祭のことや、乃木さんの伝記のことなどから、FB友達の戦史研究者の方からもコメントを頂戴致しました。

バランスのある人であってテレビや小説で描かれるほど愚かな人ではないようです。子供の時、乃木さんの日記も読みましたが、教養もあり現代的な思考力のある人に感じた事があります。乃木神社の大祭の様子を見たら本人はびっくりするようなこともあったかもしれません。

 

私の祖父は、乃木さんの実弟で萩の乱で亡くなった玉木正誼の一人っ子です。また、曽祖母は松陰の兄杉民治の長女でしたので、どんな人かは知りませんが、松陰の姪ということで苦難も経験したのでしょう。恐らく気概というかプライドも高かったかもしれません。乃木さんに12歳から育てられ軍人になり、祖母と結婚し6人の子供(うち2人は早逝)が生まれ、孫は7名になりました。歴史的には玉木は乃木から分家した家ですが、玉木の家系図をみるとほとんどが養子でつないでいます。松陰の幼少時を教育したといわれる文之進も杉家からの養子でした。

  

 私は末子次男の長女で、すでに亡くなっていた祖父からみたら、6番目の孫ではありましたが初めての内孫でした。祖母が大変かわいがってくれたようで、サラリーマンで薄給の父には出せない私立の小学校の学費やお小遣いは祖母が負担してくれました。ピアニストになっていた従姉妹のお古のピアノを譲ってくれたのも祖母でした。

 

 子供の時から親戚の集まりに出ることもあり、昭和40年代、赤坂乃木神社が結婚式場や社屋を立て替えたときにも小学生ながら出席しました。その時の親戚たちの着飾っていたり晴れがましい雰囲気を子供ながらにも覚えています。父は乃木さんのやはり末弟である大舘集作の名前を継ぎましたが、父は子供のいない伯父の家の名前を継がせたかったのか成人して、祖母が亡くなってからほどなく玉木姓になりました。祖母がよく、私に「玉木になるんだよ」と言っていたのもあったかもしれません。

 

 乃木さんが自刃したとき、すでに日露戦争で子供が亡くなっていたので、年上の甥である祖父が葬儀の責任者になったようです。そういう環境で育ったので、祖父は系図を大事にしていました。伯父にもそれは引き継がれています。

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水師営の会見

日露戦争の後、講和会議でロシア側のステッセル将軍との会見について、当時の歌がある。子供の時によく歌をきいて(乃木神社のお祀り)、すごい歌だな、と思ったが前後関係がわからなかったのでそのままにしていた。

今日久しぶりに9月13日の大祭に参加して、歌う段になって、ギョッとしたが、子供の時の記憶というのはすごい。歌えた。

 

一、旅順開城約成りて、敵の将軍ステッセル乃木大将と会見の、所はいずこ、水師営

二、庭に一本なつめの木、弾丸あともいちじるく、ぐづれ残れる民屋に、いまぞ相見る二将軍

三、乃木大将はおごそかに、御めぐみ深き大君の大みことのりつたふれば、彼かしこみて謝しまつる

四、昨日の敵は今日の友、語る言葉もうちとけて、我はたたへつつ、彼の防備、彼はたたへつつ我が武勇

五、かたち正して言ひ出でぬ、「この方面の戦闘に二子を失ひ給ひつる閣下の心如何にぞ」と

六、「二人の我が子それぞれに、死所を得たるを喜べりこれぞ武門の面目」と大将答力あり

七、両将昼食共にして、なほも尽きせぬ物語 「我に愛する良馬あり、今日の記念に献ずべし」

八、「厚意謝するに余りあり、軍のおきてにしたがひて他日我が手に受領せば、長くいたはり養はん」

九、「さらば」と握手ねんごろに、別れて行くや右左 砲音絶えし砲台に ひらめき立てり、日の御旗

 

この中には共感できない価値観も含まれているが、戦争が終わったときに、海外からも賛同を得られるお互いを尊重する態度をとったことは、事後処理の仕方として画期的だと思う。息子の死を武門の面目とするとか、戦争賛美とも思える日章旗等を揚げることについては異論もあるが、当時の人の育った感覚の影響を免れることはできないだろう。公が私に優先する、私情を挟まないという武士道の教育を受けた人にとっては愛児の死についてもそのように捉えるしかなかったのだろうか。希典本来の性格は感情が強く出るタイプとも見受けられる。

日露戦争についての批判については、もう少し学んでからしてみたい。

 

 

 

乃木神社大祭 2014

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 爽やかな秋の風のある9月13日、赤坂乃木神社の大祭に出席した。結婚前以来だからかれこれ20年ぶりになる。実はその前に昨年10月ご鎮座90年祭に出席した。もっと本当のことをいうと、2012年10月の祖霊祭に出席したが、途中精神的にいたたまれなくなって離席した。

 

 乃木邸は本人の遺言により当時の東京市に寄付されました。全国に沢山の乃木神社がありますが、批判や崇拝や毀誉褒貶の多い人生でした。

しかし、熱烈なファンがいることも事実。何かそこにはあるのだろうか。人生を知れば知るほど、私の勝手な理解だと、乃木のスタイルでもあった天皇の臣として生き続けることには彼自身に深い悲しみと重荷がずっとあった、と思います。公を重んじ、私を捨てるという哲学ともいうべき幼いころ植え付けられた教えこそが彼にとって心のよりどころのすべてでもあり、彼なりの生き方の原点がありました。

 このブログの中では、一番大きなテーマになるのかもしれません。

 

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下関 功山寺の墓

 集作の養子先は、旧長府藩の藩士で昔は500石取の名家だったが、御一新の波に乗り切れずすっかり落魄して貧乏と孤独にうちひしがれた70歳くらいの老人がいた。その本人甚五左衛門の父は大舘啞禅ということだが、戸籍には子供も妻もいない。その家の名前を継ぎ、同時に西田徳次の姉ツネと結婚し、老人を扶養した。

 亀の甲という場所から、ほどなく谷山に移り、集作は農作をし、ツネは士族のでながら、機織りをした。集作40歳、ツネ29歳。

 明治42年から甥長谷川栄次が長府中学に入り、希典の頼みにより預かる。

 希典自刃の直前大舘夫妻は兄より東京に呼び寄せられる。後事を託すつもりであったのだろう。遺言により那須野別邸は集作夫婦に譲られる。

 石林(那須野)の別荘は敷地三段余、田畑三町歩、山林十三町、谷山を処分して甚五左衛門とツネを伴って移り住んだ。大正三年7月甚五左衛門は養子夫婦にみとられ79歳で没した。

 長谷川久次は、大舘家が谷山を引き上げるときに府立第四中学に転校したが、海軍兵学校の入学準備中病を得て、大正5年9月石林の大舘家で療養中亡くなった。久次は身体も丈夫で頭も良かったので、母親のイネの悲嘆は大きかったという。

 大舘家代々の墓は功山寺にある。集作は晩年を兄希典の遺産となった那須野の別荘で過ごし東京で亡くなったので、墓は住居のあった那須野にもある。今はその那須野の別荘は、那須乃木神社となっている。

 

 功山寺のやや小高いところに大舘家の墓所がある。当時は立派な先祖代々の墓であった。大舘集作が亡くなった後は、甥玉木正之の次女(正確には次女の蔦子が早逝したので三女)艶子が跡をたてたが、その後艶子が結婚のため、次男正信が大舘家を名跡だけ継いでいる。功山寺には、兄希典の幼馴染みでもあり、集作の良き理解者でもあり、希典の死後万事指図をしていた桂弥一も葬られている。

 現在は私の弟正宏が大舘家を名乗るが、遠方でお墓は那須野を管理するにとどまっている。現在の大舘家で管理できないものを、功山寺の墓は長府乃木神社の若い松吉宮司が毎年掃除をし世話をしてくださっているとのこと。どこかの時点で整理をしなくてはいけないのだろう。