乃木さんの親戚について

 乃木神社の大祭のことや、乃木さんの伝記のことなどから、FB友達の戦史研究者の方からもコメントを頂戴致しました。

バランスのある人であってテレビや小説で描かれるほど愚かな人ではないようです。子供の時、乃木さんの日記も読みましたが、教養もあり現代的な思考力のある人に感じた事があります。乃木神社の大祭の様子を見たら本人はびっくりするようなこともあったかもしれません。

 

私の祖父は、乃木さんの実弟で萩の乱で亡くなった玉木正誼の一人っ子です。また、曽祖母は松陰の兄杉民治の長女でしたので、どんな人かは知りませんが、松陰の姪ということで苦難も経験したのでしょう。恐らく気概というかプライドも高かったかもしれません。乃木さんに12歳から育てられ軍人になり、祖母と結婚し6人の子供(うち2人は早逝)が生まれ、孫は7名になりました。歴史的には玉木は乃木から分家した家ですが、玉木の家系図をみるとほとんどが養子でつないでいます。松陰の幼少時を教育したといわれる文之進も杉家からの養子でした。

  

 私は末子次男の長女で、すでに亡くなっていた祖父からみたら、6番目の孫ではありましたが初めての内孫でした。祖母が大変かわいがってくれたようで、サラリーマンで薄給の父には出せない私立の小学校の学費やお小遣いは祖母が負担してくれました。ピアニストになっていた従姉妹のお古のピアノを譲ってくれたのも祖母でした。

 

 子供の時から親戚の集まりに出ることもあり、昭和40年代、赤坂乃木神社が結婚式場や社屋を立て替えたときにも小学生ながら出席しました。その時の親戚たちの着飾っていたり晴れがましい雰囲気を子供ながらにも覚えています。父は乃木さんのやはり末弟である大舘集作の名前を継ぎましたが、父は子供のいない伯父の家の名前を継がせたかったのか成人して、祖母が亡くなってからほどなく玉木姓になりました。祖母がよく、私に「玉木になるんだよ」と言っていたのもあったかもしれません。

 

 乃木さんが自刃したとき、すでに日露戦争で子供が亡くなっていたので、年上の甥である祖父が葬儀の責任者になったようです。そういう環境で育ったので、祖父は系図を大事にしていました。伯父にもそれは引き継がれています。

 

 

 父が経済破綻以降、そんなことに気を向ける機会もなく、自分の生活を確立することで精一杯になってから、そういう親戚の集まりにも参加することもなく、最後は「自由に生きていて、しかも上昇志向が強いから勝手にしろ」「生意気だ。」「男子の正統な家系ではない」「神道を信じない」という今考えても「???」な自分の力ではどうすることもできないことを正面から真顔で言われ、誰からも離れていきました。

 

 伯父が高齢になって、皮肉な巡り合わせで、どうしてもでききれない後始末の役割が回ってきたときに、自分の今までの気持ちが整理できるのかもしれないとも思いました。伯父は生前に随分自分の身辺を整理していましたが、荷物に残っていたのは親戚の住所や手紙、アルバム、祖父の作った系図、そして自分で更新し続けた親戚会の資料などが多く目につきました。私の感覚からすると、ウルトラ右翼。 皇室関係の雑誌とか。

 

 親戚とのやりとりは、晩年たった一人でいた伯父にとっては、かけがえのないものだったのだと思います。私自身、夫や夫の親戚としかつきあわず、自分の親戚とは誰も10年以上つきあっていなかったから、そういう不安定な気持ちは想像できます。年を取ってきて、孤独になり、判断が狂ってきた部分もあったかもしれない。元々そうだったのかもしれない。30年前に亡くなった義伯母は立派な人でした。伯母の貢献がいかに大きかったかがわかります。書類を整理していると伯母が細かいところまでフォローしていたことにも気づきました。達筆で聡明な伯母が伯父に代わって筆耕したりしている書類が出てきました。もっとしっかり見てあげることもできたかもしれないけれど、私も苦労が足りなくて、とてもそんな気持ちにはなれなかった。

 

 気持ちの変化がおきて、これは歴史なんだと思うようになるまでには沢山の葛藤がありました。

 

 乃木神社には、伯父や伯母から言われた理不尽な言葉ややりとりがフラッシュバックするので目をむけることはありませんでしたし、テレビのドラマも一切見たくなかったのです。それは松陰に対してもそうでした。

 

 目の前の親戚よりも、遠い日に亡くなった親戚の方が大事な人たち。という思いが強かったし、年齢を重ねて楽しみがなくなった人たちの心理を理解することはできませんでした。

 

 伯父は学習院を経て京都大学の工学部冶金科を卒業した後、三井鉱山の技術者になりました。退職後、エンジニアリング会社に勤めた後、伯母の看病のため仕事を70歳でやめます。

 その後は、乃木神社の崇敬会会長や理事会の仕事を亡くなるまで手放しませんでした。彼にとっての生きがいだったのかもしれません。赤坂、那須野、長府、その他沢山の乃木神社関係の宮司さん、そして世田谷、萩の松陰神社宮司さんたちとのお付き合いが多かった伯父の葬儀を行う際、たくさんの宮司さんたちが過分なくらい動いてくださいました。葬儀も、秦野の高級老人ホームまで沢山の宮司さんたちがお見えになり立派な式を頂きました。納骨にも特に赤坂、那須野の乃木神社宮司さんには、遠方から萩までお越しになり、また萩の松陰神社宮司さんに一切をサポート運営いただきました。親族以上の彼との関係の思いを感じました。

 宮司さんの中には祖父の代からご自身の家族も三代にもわたって玉木と付き合ってくださっていた方もいたようです。

 

 そういうわけで、私の今までとはまた180度違った気持ちで伯父の楽しみに私も付き合いました。多分しばらくの間、せっかくの祖父や伯父との縁なので自分なりに楽しんでみようと思うようになっています。

 

 そして、今年赤坂の乃木神社の大祭に足を運んでみることにしました。伯父の尽力があり、乃木さんの二人の妹たちの子孫が大勢参加されていて、弟である玉木の子孫は一番年上の従兄弟と下から二番目の私だけでした。何十人もの方たちは長谷川イネ、小笠原キネの子孫の方たちです。

 

 多分、私のような嫌な思いをすることもなく、ただ楽しく出席されていたのだと思います。乃木さんから見て弟妹の子孫の中で最後の長老だった伯父が亡くなりました。私は4代目の中で一番若い部類ですから、5代目、6代目が殆どで、もう誰が誰だかわからないくらい女性で結婚していった子孫が多いのかそれぞれ苗字も違っていて、単なるはるか昔親戚だったんだ、というくらい知らない人たちばかりでした。

  

 幕末関連で、子供の時から見慣れた系図に載っていない人が子孫を名乗っているのを見たりすると、それだけすそ野が広がり、関係者が増えていったんだな、と思ったり。そういう過去はもう自分には手が届かないところにいるような寂しい気持ちもあったりします。

 

  静子夫人の実家湯地家の方はまだ健在でしたが、過去の人たちが自意識過剰になるほどプライドの糧としていた事実は神話化され、もやもやもやという時代に入りました。

 

 私にとって玉木という名前は愛憎深い名前です。私の玉木家の記憶は祖母や伯母がいて、親戚がみんなで集まって楽しく賑やかに過ごしていた時のところで止まってしまっています。伯母がなくなり、祖母が亡くなり、そして父親がいなくなってしまってからの記憶はあまりありません。

 30代の頃、時々伯母が夢に出てきました、そして10年ほど前にヨガをしている最中、ふっと祖母と祖母と暮らした家のことを思い出しました。そして、先日、夢の中で自分の潜在意識の中に思ったこともなかった、祖父や曾祖母の意識が表れたのには驚きました。ものすごく微かな意識で、その時の祖父は小さな男の子でした。曾祖母はもっとイメージがなくて、悲しんでいるようにみえました。

 自分でも気づかない、表層にみえない意識は不思議です。