水師営の会見

日露戦争の後、講和会議でロシア側のステッセル将軍との会見について、当時の歌がある。子供の時によく歌をきいて(乃木神社のお祀り)、すごい歌だな、と思ったが前後関係がわからなかったのでそのままにしていた。

今日久しぶりに9月13日の大祭に参加して、歌う段になって、ギョッとしたが、子供の時の記憶というのはすごい。歌えた。

 

一、旅順開城約成りて、敵の将軍ステッセル乃木大将と会見の、所はいずこ、水師営

二、庭に一本なつめの木、弾丸あともいちじるく、ぐづれ残れる民屋に、いまぞ相見る二将軍

三、乃木大将はおごそかに、御めぐみ深き大君の大みことのりつたふれば、彼かしこみて謝しまつる

四、昨日の敵は今日の友、語る言葉もうちとけて、我はたたへつつ、彼の防備、彼はたたへつつ我が武勇

五、かたち正して言ひ出でぬ、「この方面の戦闘に二子を失ひ給ひつる閣下の心如何にぞ」と

六、「二人の我が子それぞれに、死所を得たるを喜べりこれぞ武門の面目」と大将答力あり

七、両将昼食共にして、なほも尽きせぬ物語 「我に愛する良馬あり、今日の記念に献ずべし」

八、「厚意謝するに余りあり、軍のおきてにしたがひて他日我が手に受領せば、長くいたはり養はん」

九、「さらば」と握手ねんごろに、別れて行くや右左 砲音絶えし砲台に ひらめき立てり、日の御旗

 

この中には共感できない価値観も含まれているが、戦争が終わったときに、海外からも賛同を得られるお互いを尊重する態度をとったことは、事後処理の仕方として画期的だと思う。息子の死を武門の面目とするとか、戦争賛美とも思える日章旗等を揚げることについては異論もあるが、当時の人の育った感覚の影響を免れることはできないだろう。公が私に優先する、私情を挟まないという武士道の教育を受けた人にとっては愛児の死についてもそのように捉えるしかなかったのだろうか。希典本来の性格は感情が強く出るタイプとも見受けられる。

日露戦争についての批判については、もう少し学んでからしてみたい。