乃木家絶家と再興について 希典自刃後の顛末

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乃木希典が大正元年9月13日自刃した際、十通をこえる遺言書をしたためてあった。

 「希典は『養子弊害ハ古来之議論有之』『天理ニ背キタル事ハ致ス間敷』『呉々も断絶ノ目的ヲ遂ケ候義大切ナリ』と養子を否定し、乃木伯爵家の絶家を遺言した(これはあわせてその再興をしないことを意味していた)。翌二年四月に乃木家は裁判所の許可を得て絶家となった。赤坂の乃木邸も遺言どおり東京市に寄付された。(途中省略)三年以内に家督相続の届出をしないときは襲爵できないとする華族令によって、大正四年九月一二日に伯爵も喪失した。ここに乃木伯爵家は絶え、希典の遺志が実現したのである。

 その翌日である大正四年九月一三日は、希典・静子の三年祭の日にあたり、青山霊園の乃木家墓所で墓前祭がとり行われていた。まさにその当日、乃木家の旧主家毛利子爵家の次男毛利元智に『乃木の家名再興』の思召しをもって伯爵が授けられた。元智は乃木姓の一家を創立し、ここに新乃木伯爵家が誕生した。これを一般に乃木伯爵家の再興といったのである。」

井戸田博史著「乃木希典殉死・以後 伯爵家再興をめぐって」1989年発行 新人物往来社刊 はしがき9~10ページより

 

 家制度とは何か、遺言にもかかわらず、再興することが必要とされた権力側の意図は、家族国家観と家族主義を強調し、忠考一体を目指すものであった。「家」とくに家名と祖先祭祀の永続はきわめて重視され、非血縁者によってでも、「家」は存続すべきと考えられた。

当時の考え方からすれば、血縁の男子が継ぐことが順当であったが、甥の玉木は逆賊の子であり、末弟の集作は遺言を固持し、もし強制されれば「兄に申し訳ないから切腹しなくてはいけない」と仄めかしたという経緯があった。

 詳細の顛末は井戸田氏の著書に詳しいが、親戚の中でこの話を聞いたことはなかったが、すでに大学の頃、親しい法学教授の方から乃木裁判についてうかがったことがあり、内容を知りたいと思っていた。

 伯父の本棚を整理している中にこの著書を見つけ、今年になってから読了。

 今ここで、この一連の年代を整理してみると、祖父正之が陸軍から待令になったのが大正6年。乃木家再興から二年後。そして萩に隠居した昭和10年は、まさに乃木元智氏が乃木家を廃家し毛利姓に戻った昭和9年の翌年であった。

乃木家血縁者が絶えたとき、乃木家の墳墓を永久に保護することを条件として、乃木邸は大正2年3月1日に東京市に引き渡された。しかし乃木家の血縁者があるかぎりは、乃木家の祭祀をすることは、希典の遺志でもあったようだ。祖父正之が親族代表として「墳墓維持費及祭典費用」を保管し、親族会議で、毎年9月13日これを執行し、当分の内、10月31日を以て、更に祖先の祭典を執行し、玉木保管の祭典基金を以て支払うと決議した。

 元智氏が乃木家再興した際に、祖先祭祀と神霊(故将軍位牌)と系図等の乃木家家宝を、時の為政者は玉木正之から元智氏に引き渡しするように求めた。当時正之は陸軍砲兵少佐の軍籍にあり、山縣有朋寺内正毅等為政者の意図には逆らえないものがあったようだ。結局親族会議の結果、墳墓、神霊、財産等について元智氏の乃木家に譲る旨の決議書を提出した。昭和九年、元智氏の廃家に伴い、これらの一切は玉木家に返還された。

 祖父が軍籍を離れた理由に、幼い頃に軍部で乃木家の事を巡って立場が弱くなったということを聞いていたが、これらの一連の騒動が原因だったことに気づいた。晩年、祖先の墳墓の整理や系図、家紋等に打ち込んだ理由も想像される。

 また、祖父が先妻である方と協議離婚して、祖母鶴と再婚したのも大正4年であった。伯父正光が生まれたのは大正5年6月28日である。

晩年に「家」「墳墓」「祭祀」「系図」に固執したのはそういった祖父の経緯からくる影響と、まさに生まれた当時の社会の刷り込みがあったためだと思われる。

 

 こういった経緯を聞く時間も余裕もなかったが、私は20代の時、子供のいなかった伯父と養子縁組をした。昭和60年61歳で癌で亡くなった伯母に続いて、昭和61年祖母が90歳で亡くなった直後のことであった。幼い頃から祖母に云われていたことでもあり、その当時はまだ家庭にいた父が持ち出した話だった。

 しかし、数年後父が経済的破綻をした後、失踪し、一家はバラバラになり経済的に困窮したことから、外資系金融機関で職を得て多忙を極めてくるにつれ、残された姪である私と親族との間に軋轢が生まれてきた。個人の気持ちとしては、何とかして自分が考える「人並み」の生活を立て直したい一心だった。

 本来、緩衝役になる実父が介在しなくなったことで、前述のような影響をもっていた伯父や、またその他の姉妹である伯母たちが、私の結婚を機に「生意気な姪」を疎ましく思ったようだ。父親がいなくなっても、なぜか元気そうに見えて可愛げもない。

 突然、楽しい親族会の後、ホテルの一室に呼び出され、玉木家は乃木家の祭祀をつかさどる家だから、神道を重んぜず、カトリックを信じる貴方は出て行ってくれ。という趣旨のことを突然切り出された。上述の乃木家廃絶の経緯は全く知識の外であったので、大変動揺し驚いた。ちなみに、私は宗教全般に懐疑的で、カトリックを信じている訳でもなく(生後3か月で受洗したので、特に自分の意思もなく、信念でもない。同時に神道は父の実家の宗教であり、またここにも信念もなく知識や経験としては何となく混在していた)神秘主義的なところに興味がそれほどない。そこには私に対する多くの誤解があった。

 財産がそれほどあるわけでもない、サラリーマンを定年退職し当時八十歳の伯父にとって先祖の家名は自意識の中心になっていき、常軌を逸した言掛りに感じられた。しかし、伯父にとっては自分や自分の家を私に乗っ取られるという妄想に囚われたようだ。丁度老人になって伯父は自分一人の生活に不安を感じだしたときのことで、それまで年齢を越えて元気で鍛錬している人について全く心配を感じたことはなかった。

 伯母たちにとってみれば、専業主婦の美徳である家事を疎かにし、仕事に傾注している姪は女として許せない存在でもあったようだ。私は料理も編み物も大変好きで、かなり本格的に修行したが、実家の経済破綻から断念し、仕事上必要な法律の勉強や英語のブラッシュアップと、結婚し新しい家庭を維持することに精一杯の30代の働き盛りだった。また、行きがかり上、母が住むことになった小さなフラットのローンの返済も負担になっていた。そういったことは伝わってはいなかったようで、従姉妹の一人から結婚に際し「料理はできるのか?」といきなり質問された。つまり、私個人に対する情報は年齢の差、住む地域の違いから詳しく伝わっていなかった。余裕がなく突っ走っている年頃だったのもあるし、元々保守的な家で身近に働いている女性が殆どいなかったこともあり、女性が寝食を疎かにするほど働くということには理解がなかった。

 玉木家にまつわるもの全てが、自分を否定したと感じ、誰とも付き合わなくなった。その後、伯父は玉木家断絶というどこかで聞いたようなセレモニーを地方で行ったり、や墳墓や不動産の整理、新しい祭祀を立ち上げての遂行に益々傾注していった。頼るものがそこに集中してしまったのだろう。私はもう親族の中では、名簿の中に入っていても、内輪の招待リストにはない人間になっていた。

 平日昼間に乃木神社や萩の松陰神社に親族が参加する宗教的な式典は、有職者には参加できないものだ。大抵の場合、そういった儀式には定年後や専業主婦の者しか参加しないし、一つの趣味みたいなものだ。と認識していた。

 この事件を契機に、現憲法ではなく、旧憲法の家制度に大変な反発を感じるようになった。もともと考え方に個人主義の思想があったところに、どう考えても人権を無視する言掛りは、自分自身への中傷にしか聞こえなくなってしまった。父親にも裏切られ、養父である伯父にも中傷され人間不信になっていった(と自分の立場ではそう思った)。私に言い分があるように、彼らにも理由があるのだろう。今、考えると、私もまだ若くて老人の気持ちを全く理解していなかったことにも気づかされる。