2013年5月27日の別ブログから転載 家族史を書こうと思ったこと

 

当時の心境は以下のように述べられていた。その頃、夫が私の母とともに伯父のところに行き、本人の希望などを聞いてきた。意識は鮮明だったが、内容を聞いたときも、「そんなことが大事だったのか。」と落胆したような気持ちになったのを覚えている。

自分の年齢、精神状態、環境が安定していたから受け入れられたのかもしれないし、その前年に萩に行った時から、なぜか気持ちが変化していたのだと思う。時間が出来事を風化させる。また、人生の中で年齢の差による立場は逆転することを痛感した。

幼いときは自分を庇護していた人たちは、いつしか前に立ちふさがる年長者となり、そして自分が成長するにつれて衰えてくる。そのフーガな関係は自分自身にもあてはまり、次の世代に追い抜かされていく。そんなことも感じていた。

 

 
「この半年以上何を考えているかというと、伯父は自分のお葬式や法事を乃木神社松陰神社で行ってほしいそうだ。
そのことを引き受けるのにあたって、大変な決心がいった。5年前にも打診があったが、断っていた。これは2度目の依頼である。私と伯父とは絶縁状態なので、(伯父にとっては弟の元妻)母を通しての依頼である。

自分が決めていたこと、伯父さんとは会わない、葬式にも出席しないと決めていたのに、自分がお葬式を執行するというのはどういうことか。いまだに肉親から受けた心の傷や打撃は癒えないにしても自分は今幸せに暮らすことができるようになった。
そしてまわりを見渡しても、元気な人は私しかいない。

15年ほど自分から家族の縁を切って暮らしてきて、距離をもって自分の親、祖父母、その前の人たちを理解しようとしだしている。思想や価値観は育った環境によって違ってしまっていても当時のことを少し理解できるようになった。感情の線を切ることは難しいが、それでもそれも私の一部だ。


自宅にあった司馬遼太郎「世に棲む日々」の再読開始。
読みだして、びっくり。10年前に旅行先で読んでいた時は全く頭に入っていなかった。まさに自分の知りたい時間と情報をを切り取っていた。文庫本になったのが1975年、購入したときの版が1999年、まさに私の中の心の空白の時間を表している。

落ち着きがない性格はあいかわらずだが、今は少し冷静に物事を考えられる。何を読んでも何も心に響かない時もある。本には読み時があるんだろう。

昔の本をひっぱりだしてきて読み始めたら止まらない。ずっと避けてきたけど、維新のゴタゴタ前後の人間模様は今の世の中にもいえている。

時代の動きについていけない人、理想論だけでは世の中いきていけないが、それをうまくすり替えて権力を維持しようとする者、内心唯々諾々だけど、ついて行く人。時代が変わるとき、事件が起こる。

それにしても内心思っていたことは、本当に大筋ではあたっているんだろうという思いを強くした。少し距離をおいて全体から物事をみると、案外流れがよくわかるけれど、渦中にいる人はそれどころじゃないから、人間の心理を知っている人が結果的には大きなことができるんでしょう。

今日はここまで。」