幕末史に興味を持つにいたった経緯(2012年9月13日のノートより抜粋)

今日は幕末史に興味をもつようになったきっかけについて、去年のノートを加筆訂正して引用する。この頃、気持ちの変化が起きて、自分自身が反発していたこと、心の傷についてもっとしっかり見てみようと思うに至ったのがきっかけだ。勿論、聞きかじりや自分なりに読んだ本の中から知っていたこと、感じていたことなどもあるが、あやふやな理解で判断していたことも多いようだ。明治から100年たってしまったな、という感慨ともう歴史なんだという思いが心のしこりを少しほぐしてくれたのかもしれない。私のルーツへの探訪がはじまった。この後、自分が気になる関係の本をアマゾンの書評や他の方のブログなどを参考にして読むようになり、萩にも5回通い、理解することで、感情の整理も少しずつ行われているようだ。

 


以下引用
本日9月13日は乃木希典自刃から100年にあたる。

乃木神社では、御祭神百年祭の斎行がある。案内状が来ていたが、やはり欠席することになる。

しかし、これは私にとっては大きな象徴的な節目なのではないかと思っている。

 

日本人にとって神道とはなんなのか。キリスト教の世界では神は目に触れることのない絶対の存在であり、人間が神になることはない。しかし、日本では死ねばみんな神様になってしまう。そのあたりの感覚は私にはない。

切腹という行為も非常に難解。武士道では責任をとる、周囲に被害が及ばないように、それによって責任の所在は曖昧になる。実際はとんでもない被害が連鎖的に起っていくと思う。

そして、それはアメリカが日本を占領したときにとても嫌がった感覚。死ぬと神になるとか、たぶん現人神がいるというのも本当に理解できなかったのでは。

 

しかし、自分のルーツを知ること、また当時の考え方を理解し整理することが、私の中での大きな心の傷を理解し、ずっとくすぶっていた怒りが解消することにもなるのではないだろうか。と思う。まだ現役世代である今のうちにとりかかっていくことなのかもしれない。10月の終わりに山口県に旅行する機会を得て、それにも不思議な縁を感じているが、それは私が望んで行きたいと思っていたところに来た話しだった。

 

明治維新前後から大正時代にかけて、日本のとった道は富国強兵だが、それは西洋に追いつき追い越すという選択肢であり、また尊王思想を含むシントーイズムを推進することによって国をまとめていこうという源になった。それが戦争を引き起こすことになったのか、ならないのか、今第二次大戦前後の記録も資料として公開される時期になりつつあり、一般の検証もされだしている。

 

実家である玉木家の4代前の文之進は幼い時の吉田松陰乃木希典などを教育した人でありこのスパルタ教育が彼らの古武士的な面を育てたことは大きいと思う。

玉木家を継いだ伯父に子供がいなかったため、次男で他家の名前を名乗っていた父(乃木家から養子にいった祖父の叔父の名前を名のる)の希望により20代の時養子縁組(戸籍上のみ)をした。結婚を機に養父である伯父たちとの考え方の違いにより、意見が相違し絶縁状態になった。

 

玉木家は文之進の代では山鹿流兵法学者で神道となっており、祖父の代から冠婚葬祭は神道で行っている。また養父の伯父は小学校から学習院でもあり、環境的に神道。対して次男の父は戦後知識人や学生の間で流行ったカトリックに入信し、私は幼児洗礼でカトリック教育を幼稚園から受けている。父方の葬式や法事は乃木神社松陰神社の神式。実家はカトリックということで、子供のときは大変混乱したが、それなりに器用に受け入れていたと思う。

それが結婚に際して、世代のギャップなのか、言いがかりとしか思えないことから行き違いが生じた。実家がバブルの影響で自宅を処分することになった結果、自立することが必要であったため、20代後半から自分なりに努力をしてきた。自立することによって言動が生意気と思われたことは大きな驚きだった。

 

乃木にとっては、玉木と「萩の乱」による兄弟、また師と生き方を異にし、袂を別れたという精神的な負担感がずっとあったのではないか、と思う。しかし、結果的に自刃した乃木の遺産は玉木の生き残りである祖父にもたらされた。祖父は当時は珍しかった「西洋人」の設計した洋館に住み、世田谷の田舎ながら1,500坪の敷地やその他の不動産を持っていた。戦後はサラリーマンになっていた兄弟は資産を売却し、何もなくなった。長男の伯父も祖母と共同購入した自宅を1998年頃処分し有料老人ホームに入る。 実力相応の生き方をしてきたが、恵まれて育った友人が多い中で自分は貧しいと常に感じていた。20代の頃から社会に出るにつれ、父たちの経済観念の違いを感じるようになり、祖母の葬式を転機に、まずは自立しなくてはと思って新聞広告で飛び込んだのが外資金融の世界だった。日本がバブルに突入する頃に、私は本当に経済的な恐怖で頭がいっぱいになっでいた。そしてその不安感が業界で20年以上働く動機になった。

 

 

玉木文之進は先祖の墓前で明治9年に自刃する。前原一誠の乱の責任をとったとされる。乃木に対してもかなりインパクトのある事件だったのは当然だろう。祖父玉木正之維新のゴタゴタで起こった下級武士の反乱の一つ前原一誠の乱で戦死した玉木正誼の遺腹の子である。正誼は乃木家から玉木家に養子で入り、吉田松陰の実兄梅太郎の娘豊子が正誼に嫁いだ。祖父正之は杉家の援助もあり萩で育ち13歳で上京し、乃木希典家に寄宿する。成城(陸軍士官予備校)を経て陸士に入り職業軍人になるが、日露戦争日清戦争に出陣するもその後予備役になるも第二次世界大戦は60代でシンガポールに郵便局長として従軍し昭和20年後半まで生き天寿を全うする。

 

乃木希典と玉木正誼

   明治の陸軍大臣・乃木希典(1849-1912)の父は乃木希次(1805-1877)という。希次は、はじめ、萩藩分家長府藩の江戸詰藩医だった乃木本家の娘秀子に婿入りした。長男源太郎が生まれた。その後秀子と離別して、同藩馬廻りに取り立てられた。弘化4年、土浦藩士長谷川金太夫の娘寿子と再婚する。寿子の最初の男子は半年で早世した。嘉永2年、源太郎が23歳で死去。その年、11月11日三男、希典(幼名、無人)が生まれる。ついで長女キネ、四男真人(のち正誼)、二女イネ、五男集作。

    希典より6歳下の実弟、乃木正誼(のぎまさよし、1855-1876)はのち玉木文之進(1810-1876)の養子となり、名も玉木正誼と改め、のち萩の前原一誠の参謀格となる。

    乃木希典は若い時代、吉田松陰の叔父にして師である玉木文之進の元に寄寓して薫陶をうけ、山鹿素行吉田松陰に私淑している。乃木希典、26歳の明治7年、陸軍卿伝令使となる。明治8年には、熊本鎮台歩兵第14連隊心得となる。

   乃木希典のもとに実弟玉木正誼が前原一誠の密命を帯びて、訪ねてきたのは明治9年2月の下旬のことであった。弟は兄を涙ながらに説得しようしたが、乃木はこれを拒否した。

    去年よりも今年の秋はものうけれ

    またくる年はいやきさるらむ

この頃の乃木の歌である。こうして9月中旬に乃木は正誼に義絶を申し渡している。

   明治9年10月28日、前原一誠(1834-1876)を指導者とする殉国軍が萩の明倫館を拠点として挙兵した。玉木正誼は10月31日に戦死した。正誼の養父で乃木の恩師である玉木文之進は11月6日、祖父の墓前において自刃した。12月3日、前原一誠、奥平謙輔は斬首された。