玉木文之進

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松陰先生の甥にして後嗣・吉田庫三翁「祖先・家庭及び就任以前の事蹟」(大正三年八月四日談話。學習院輔仁會篇『乃木院長記念録』大正三年十月・三光堂刊に所引)に曰く、

 先生(明倫館代教・松下村塾主・韓峰玉木文之進正□[韓の右+温の右]翁――吉田松陰先生・乃木大將の師なり。性、剛直峻嚴、勤儉力行、人に過ぎ、節義を尚び、清廉を重んず)は、‥‥維新後、西洋の學問・風習を眞似ることが餘り盛んなので、大いに反對し、廢刀令が出た時には、大いに之を歎き、又た散髮にも大反對で、一生結髮で通した樣に、或る點から見れば、時勢後れと云ふやうな所もありましたから、前原が萩へ歸つて來てからは、共に時勢を慨し、政府の爲す所を非難したものでありますが、前原が兵を擧げると云ふなどは、無論、先生の同意したことでは無い。‥‥前原自身とても、始めから兵を擧げる考は無かつたので、其の遂に兵亂に及んだのは、全く止むを得ざるに出たもので、是には大變に入組んだ事情がありますが‥‥。今日でも只だ形の上から見れば、先生が前原の事件の顧問であつたと、書傳へたものもある位で、其の當時は非常に嫌疑を受けたものでありました。從つて自分は必ず重罰を蒙ことるであらう、それでは多年勤王を唱へ來た身の汚れになると云ふのが、先生の自殺した一理由であります。‥‥更に深い理由があつて、‥‥(門人)十五歳以上の者は、殆んど擧つて前原に與みしたのみならず、養子正誼(玉木眞人正誼。乃木大將の弟)はもとより、吉田小太郎[松陰の甥で、非凡な秀才](松陰先生の後嗣)、今一人、杉(松陰先生の兄・學圃杉民治修道翁)の養子・相次郎も與した。小太郎は暗夜に乘じ、官軍に斬込み戰死した。玉木先生は、正誼や小太郎やその他の者の親達に對しても、生きては居られない。‥‥賊名を受けさせた門人等の賊名を受けた責任と、死んだ者の父兄親戚に對して義理を立てると云ふことが、先生の自殺した最も重い理由で、義を重んずる精神から出て來た事であります(愚案、然るに安藤靜宇翁『靜宇雜纂』・『前原一誠年譜』等に據れば、玉木翁門人や古老は、玉木翁こそ、前原の後援者なれと、斷言すと云へり)。‥‥

 十一月六日、前原方潰走の日、先生は朝早く、護國山南の一族の墓地へ行きましたから、私の母[即ち松陰の妹]が、其の事を聞き、跡を追ひかけて行つて見ますと、長兄(松陰先生の父・恬齋杉百合之助常道翁)の墓上の松林の中に端坐して、既に決死の樣子ですから、其の譯を問ひました所が、「是非、死なねばならぬ」と云つて、前に申した通りの理由を述べ、更に先生の妹・佐々木氏も呼び寄せて、殘りなく後事を遺言し、「能く我が最期を見屆けて呉れ。嫁の腹に居る孫も、宜しく頼む。乃木(大將)と杉にも、宜しく傳言せよ。門人の家々にも、善く傳へて呉れ」と言つて、午後三時頃、先づ腹を切り、次に咽喉を貫いて、型の如く立派に死なれました。‥‥

 玉木に對し、宮内省贈位の内議があつた時、係官の意見が分れた。贊成側のある人から私に、「乃木大將を煩はして、手紙一通を反對側の某氏へやつてもらへば、議が成立するに極つてゐる」との話で、私は大將へ委しく申し送つたが、應ぜられなかつた。それ以前にも、贈位の話があつたが、贊成されなかつた。(玉木韓峰翁の)高風を追慕し、毎年祭祀までしながら、贈位に贊成されなかつたのは、深い意見があるのであらう」と(愚案、吉田庫三翁の談話には、大將の意見を載せてあるが、それ以外に深い理由があると拜され得る)。



 愚案、官賊の別は章かであるが、贈位と官祭の分は、非常に難しき問題にして、聖恩、枯骨に及び、神社に祀られるに至るは、蓋し神祕の奧に屬する事項なのであらう。言擧げ出來ぬこともなからうが、次々と問題が出來して、凡俗の容易に云々するを許さない。「私見を去り、公義を採り」、「兆民をして、悉く其の堵に安んぜしむるは、曠古の大業」なる所以、隱れて現れざる古人の顯彰に力め、其の志、其の祈りに應ずるは、今人の任務であること、勿論である。下記を再掲し、併せて各位の研鑽に供したい。