久坂文が毛利家の奥女中になった背景

(無断転載をお断り致します。)


大河ドラマで、文が萩藩の奥女中として就職を直談判するというくだりがあるが、ありえないのでは?と思い推論する。

 

乃木希次を通しての、玉木文之進の紹介ではなかったかと思っている。久坂玄端は、禁門の変で亡くなった時はすでに士分(大組士)であり、未亡人となった武家の妻が奥女中で働くということはそれほど突飛なことではなかったのではないか。

乃木希典は、当時玉木文之進宅に起居(1864年4月~)しており、希典の父である希次と文之進は気質も似ていたし、遠縁(玉木家は乃木家の分流)でもありお互いをよく尊敬していた。

 

希典は、文之進の教えを受けたのち、1864年10月から明倫館に通い、諸隊の一つである長府藩の報国隊に入隊している。

 

希次は長府毛利家の銀姫の守役を経て、一時減録され長府藩に戻るが、のち有職故実に詳しいことから藩主の養子である毛利元敏・元巧兄弟に礼法・武芸を教える。1864年、元敏・元巧兄弟が明倫館で学ぶ際には同行している。

 

また、萩藩士御堀耕三(大田市之進)は希典の従兄弟だが、熱烈な攘夷派で、禁門の変にも参加。文之進の実子である玉木彦助は御堀耕三率いる御楯隊に入隊している。

 

幕末当時の人間関係は、われわれの今日よりもずっと地域社会・血縁社会型(ゲゼルシャフト)でご縁社会である、文が直訴するというよりも、文之進が動いたと考える方が自然だと思われる。

文之進は1863年以降、各地の代官職から藩政に参加しており、その頃は江戸行相府(当役)となっている。