吉田松陰の墓と松陰神社 2
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二、萩の墓
萩では万延元年(1860)2月7日が松陰の百ヶ日に当たり、生家の杉家で百日祭を営み、護国山団子岩の吉田家墓地に遺髪を埋葬することにした。
正月30日に久坂・高杉をはじめ門人10人があつまり墓碑建設を相談し、当日親戚・門人等は故人の霊を弔い、遺髪を埋葬した。
会葬した門人は久坂・高杉・中谷正亮・久保清太郎・佐世八十郎(前原一誠)・岡部富太郎・有吉熊次郎・福原又四郎・作間忠三郎(寺島)・品川弥次郎・松浦松洞・増野徳民・天野清三郎(渡辺嵩蔵)・時山直八・玉木彦介・馬島甫仙・国司仙吉・山田顕義・瀬能百合熊等。入江杉蔵・野村和作(靖)は獄中、吉田栄太郎(稔麿)は思うところがあり欠席。
墓碑は同月15日で自然石の表に「松陰二十一回猛士墓」裏に「姓吉田氏・称寅次郎、安政6年巳未10月27日於江戸没、享年30歳」と彫られている。
一対の石灯籠には門人の名前(久保久清・佐世一誠・久坂誠・岡部利済・福原利実・中谷実三・高杉春風・有吉良明・天野一貫・作間昌昭・時山済等)、花立には伊藤和郷・入江政・野村旨糸采、水盤には松浦無窮・増野乾・品川、小さな花立には杉家妹中と彫られている。
昭和41年6月萩市内有志により「松陰先生の墓を守る会」が結成され(当時の会長豊田正)、毎年墓所の清掃や萩市仏教団の協賛により墓前祭を執行している。昭和47年2月9日萩市は「吉田松陰墓ならびに墓所」を史跡に指定した。
吉田庫三、吉田大助・くま、杉艶子、杉小三郎の5つの墓があるほか、門人高杉晋作、吉田稔麿、阿座上正蔵、馬島誠一郎、口羽良純、久坂玄瑞の墓、他に親族の杉家、玉木家、児玉家久坂家の墓がある。
上記冊子よりほぼ全文抄訳
追記:吉田松陰の墓および親族の墓に墓所は、現在も杉家の私有地である。また玉木家私有地であった区分は、現在松陰神社の所属管理になっている(永代供養をお願いした)。したがって、こちらの墓所は私有地であり、市民のものではないことを強く主張する。吉田松陰の墓を守る会の認識として、松陰の墓だけが大事であるかのように主張されたことがあるが、末裔にあたる親族やその他の人達にとっても大事な家族の場所であり、その墓所としてのとらえ方に、松陰を敬慕しすぎるために理解に齟齬があり誹謗中傷された事実があったことを非常に残念に思っている。この件についてもし異議がある場合には、より詳細に事実を丁寧に家族の権利を主張するものである。
吉田松陰の墓と松陰神社
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吉田松陰の墓や神社の由来についてあまり知られていないが、年末に約35年前(昭和50年)にまとめられた小冊子をみつけた。
当時、萩の郷土文化の編纂に熱心であった、田中助一氏(明治44年生、医師、郷土史家、当時松陰神社総代)がまとめられたもので主なことを編年的に書いてあり信頼がおけるものだと思われるので、ここにまとめておくことにする。
1.東京の墓
松陰の処刑
松陰は、安政6年(1859年)伝馬町の獄にいれられた。二回の取り調べののち、死を覚悟した松陰は10月20日門人の飯田正伯(藩医)、尾寺新之丞に手紙で死語の処置を依頼した。
10月26日夜、藩邸で周布(すう)政之助は尾寺に翌朝評定所で松陰の判決があることを告げていた。
尾寺は飯田を誘い、評定所の門前の露店で、重罪人が伝馬町に送られたことを聞き、伝馬町の獄卒金六から松陰が四ツ時(午前10時)に処刑されたことを知った。
牢役人から遺骸を下げ渡してもらうことを、金六にとりなしを頼んだが牢役人は二度の嘆願を聞き入れなかった。飯田は、29日に直接牢役人に面会し懇請した結果、「牢の中で屍体の処分に困っている」ということにして小塚回向院で渡すと約束した。
埋葬
桜田藩邸(長州藩上屋敷)に行った飯田と尾寺は桂小五郎、伊藤利助(博文)にこれを伝え、大甕と大石を買い回向院に赴いた。すでに桂と伊藤がついており、4人で四斗樽を渡してもらい、あけたことろ、髪は乱れ、血が流れ出ており、素裸にしてあった。
飯田は髪を束ね、桂と尾寺は手酌で水をかけ血を洗い落とし、切られた首を胴につけようとしたが、役人から「重罪人の屍は他日検屍の可能性があるので、首をついだことがわかると罰を受けるのでそのままにしてもらいたい」と告げられた。
飯田は黒羽二重の下着を、桂は襦袢を脱いで体に着せ、伊藤は帯をといてむすび、首をその上において、甕におさめ、先に葬られていた橋本左内の墓の傍に埋め、その上に大石を置いた。
墓碑
11月7日に飯田・尾寺等は六尺余の大きい墓碑を建てたが、幕府に遠慮もあり、両側面に彫る予定だった辞世の詩や和歌は来週になって彫ることとし、正面に3行「安政巳未十月念七日死、松陰二十一回猛士墓、吉田寅次郎行年30歳」とだけ彫らせた。
詳細は、11月15日付けで飯田・尾寺が国元の高杉晋作・久保清太郎(断三)・久坂玄瑞(義助)等宛ての埋葬報告書に書いてある。
しかし、幕府は、院内の志士の墓碑をこわしたので、松陰の墓碑も取り除かれた。4年後の文久二年(1862)8月萩毛利家(長州藩世子)毛利定広(元徳)が朝廷よりの死者大原重徳(しげとみ)と共に天皇の意向を幕府に伝えた文中に「戌牛(安政5年)以来罪を国事に得た者をゆるし、死者の罪名を削るように」とあった。久坂等は幕府の了解を得て、墓碑を建て直し、久坂が揮毫した碑銘は、今日も回向院に残っている。
改葬
高杉等が熱心に改葬を唱えた。「小塚原は刑死者を埋める穢汚(けがれ)の地で忠烈の骨を休んずべき所ではない」という理由だ。藩の許可を得て、荏原郡若林村の大夫山に移すことになる。
延宝2年(1674)、二代藩主毛利綱広が、旗本志村勘右衛門の采地内の農民の土地を買い火災の避難地にしたもので地勢が丘を成し、林際に別邸があったので、長州藩主の通称である松平大膳大夫にしなんで、「だいぶやま」(または長州山)と称した。
頼三樹三郎(頼山陽の息子)と小林民部(公卿鷹司家士)を改葬することにした。高杉晋作、堀真五郎、伊藤利助、山尾庸三、白井小助、赤祢武人、遠藤貞一が主宰者となり、山尾・白井が前日に小塚村で準備をととのえ文久3年正月5日朝、3人の墓を掘り遺骨を新棺に納めた。
門人や知人が棺にしたがい、高杉が騎乗で先頭に進み、上野山下の三枚橋の中橋を渡ろうとしたときに、万人が列を止めようとした(将軍が東叡山参拝の時に渡る橋で諸侯以下士庶人は左右の橋を渡る規則になっていた)。高杉は「我等長州の同志が朝廷の旨を奉じて、忠烈の士の遺骨を葬るのである。その途中この橋を通るのであるからどうして不都合なことがあろうか」と激しく叱ったので、番人がひるむすきに通り抜けてしまった。
改葬が完了したのは夕方だった。
数日後、松陰の親友来原良蔵(文久2年8月29日桜田邸内で自殺)の芝青松寺の墓から松陰の墓に向かって左傍に移し、同年11月笠原半九郎が友人福原乙之進(文久3年11月25日没)の墓を左側に建てた。
元治元年(1864)7月19日京都の禁門の変により、幕府は長州藩の江戸上屋敷(桜田)、中屋敷(麻布)等の諸邸を没収、大夫山に火を放ち、別邸をこわし、5つの墓(松陰、頼三樹三郎、小林民部、来原良蔵、福原乙之進)を破壊させた。
修復
松陰の死後8年たち、王政復古が行われた。明治元年(1868)11月江戸在勤の内藤左兵衛が墳墓破壊につき、徳川家に抗議し、木戸孝允は藩命を受けて、土木吏井上新一郎(信一)に命じて墓碑を建て替えた。また域内に綿貫治良助(元治元年7月26日没)の墓を移築、元治甲子の変で戦死、または獄死した45人の招魂碑を建てた。木戸は墓地の入り口の両柱に花崗岩製の鳥居を寄進。徳川家からは葵紋のついた水盤一基が寄進された。
松陰の墓の揮毫者は藩士井原小四郎である。
明治2年7月整武隊長官が鳥居から墓までの参道に石を敷いた。。
その後8年11月17日来原良蔵の未亡人春子(木戸孝允の妹)も域内に葬られ、明治12年1月24日松陰の門弟野村靖も遺言により葬られた。墓石は松陰より小さく造られて、先師を敬慕して墓守となろうとしたとされる。明治44年4月14日夫人花子も合装された。
明治44年6月1日中谷正亮(文久2年8月8日没)が贈位になり、甥の桂太郎が芝愛宕下彼岸院の墓を移築した。
夏みかんと長州藩士 2015年に私が思ったこと
大変恐縮ですが、シェア不可とさせていただきます。質問等ございましたら、ご連絡ください。
今日は、やまぐち食べる通信をはじめたきっかけになった2015年萩の夏みかんまつりの時に行ったスピーチの原稿を添付する。
「やまぐち食べる通信」で県内各地をまわったからみえたこと。
やはり、ワインや日本酒や食材の地理的条件、歴史的背景、ツーリズムが一体になって自分がしたいことをずっと考えていると、循環型の世界をもう一度見つめ直すこと。
過去をみることによって、未来をどうとらえるかという近・現代史を通史で淡々と読むという計画にも、全て繋がっていると思うから。
当時、ぼんやり考えていたことは、その後行動に移してからより具体的になってきたように思う。
夏みかんには、長州藩から山口県に、開国した日本の近代化に向かうときに人生を転換させざるをえなかった人たちのが立ち上がるきっかけがあると思うからだ。
武力よりも食のほうが多くのひとを救える。これからもきっとそうだ。日本を取り巻く環境をもっと大きなピクチャーで見たときに、私たちはどんな方向を模索していったらいいのか、夏みかんは大事な地域資源だったのだと改めて思うから。
以下コピー
花の宴 夏みかんと長州藩士 2015年5月16日(和田幸子)
本イベントを企画しました「日本の食と文化を世界に広める会」そして世界各国の調味料などの食材や自然派ワインのセレクトショップ「アニエス・レピスリー」経営の和田幸子と申します[1]。さて、このイベントでは2つのテーマが含まれています。第一に、近代史を語るとき欠かせない萩という土地、第二に、夏みかんです。萩と夏みかんの2つのテーマを選んだ理由を説明させて頂きます。
まず、萩を選んだ背景です。自己紹介を兼ねますが、私は、大阪生まれの東京育ちで、2009年に当店を東京の神楽坂で起業し、自分の目で厳選した食材や、日常生活を華やかに楽しくする食文化を広める、ということをモットーに商品の販売や食関連のイベントを企画開催しています。それでは今回なぜ、東京から遥か1,000キロ離れた萩でのイベントを企画したのか。それは父方の姓が「玉木」といい、そのルーツが萩だからです。[2]
親族の墓参りの目的だけではなく純粋に観光や仕事で萩を訪れる機会が2012年頃から増え出し、[3] 今では、仕事でも山口県在住の方や首都圏在住の山口出身の方たちとの関係が急速に広がっています。そうしたことから、萩でのイベント開催に至った次第です。
萩に関心が深まると、日本近代史への興味が否応なく高まりますが、日本は世界のなかでも、ユニークな文化の蓄積があり、政治史にとどまらず、生活史、地域史、産業史などまだあまり注目されていない幾つもの宝の山が眠っていると実感するようになりました。萩をテーマに選び、江戸時代の歴史を現在に伝える国指定文化財である熊谷家というこの上ない舞台でイベントを開催することにより、萩の人気をより盛り上げ結果的に山口、そして日本のブランド力を高めたいという野心もございます。
次に、もう一つの選択である夏みかんを選んだ背景について申し上げたいのですが、その前に幕末前後の萩の置かれた状況を振り返ってみます。「日本国」という意識、アイデンティティが明確になったのは案外新しく幕末になってからです。黒船来航など欧米列強の外圧に対抗する形で急速に「日本国」という輪郭が浮き彫りになった感があり、それまでは徳川を頂点としつつも、むしろ毛利家のような各イエが地域を治めていたわけです。今でいえば、ヨーロッパに林立する諸国という感覚だったのではないでしょうか。では、幕末時点で、この毛利家ニアリー・イコール長州藩は日本全体の中でどの程度の重みがあったのでしょうか。人口だけをその尺度とさせていただきますと、萩藩つまり山口藩の人口は、明治2年で56万人前後、日本の総人口は現在の3分の1程度3,400万人でしたので[4],[5] 日本全体に占める萩のプレゼンスは相当高かったと思います。ご高承のとおりもともと教育熱心な土地柄ですので、そのプレゼンスは人口構成比よりもはるかに大きかったのではないでしょうか。そうしたマクロ環境の中で、江戸時代には観賞用の植物にすぎなかった萩の夏みかんの経済栽培が、明治維新直後に始まりました。
夏みかんは現在、萩のシンボルです。でも維新後の長州士族にとってもすでにシンボルだったことをご存知でしょうか。夏みかんは1772年、現在の長門市青海島の海岸に漂流してきた果実だそうです。橙(だいだい)、橙樹(だいだいじゅ)、九年(くねん)母(ぼ)などとさまざまに呼ばれていました。古くは、こちらの熊谷家が接客した御膳の中にも記録が残っているとのことですので、詳細はまた熊谷家の方にお聞きください。1830年生まれの松陰の日記や手紙にも、九年(くねん)母(ぼ)や橙樹(だいだいじゅ)の記述がありますので、松陰の実家である杉家でも夏みかんを食していたのでしょう。夏みかんの歴史に関してはお手元の資料をご覧ください。
さて、明治9年、旧藩士でもあった小幡(おばた)高政(たかまさ)は、母の看病のため萩に戻り、夏橙の苗木1万株を増殖、その経済栽培を推奨しました。育てやすい夏みかんの植樹は昭和40年頃まで萩の産業の大切な経済的基盤になりました。しかし、同じ明治9年中央政府の方針に不満な士族が中心になり、前原一誠の乱とも呼ばれる萩の乱が発生しました。先ほど当時の萩藩の人口は56万人前後と申しましたが、士族はそのうち高々2万人[6] だったのですが、幕末・維新に影響を与えた松下村塾関係者にとって、同志や親族の信条や生き様の違いを鮮明にし、萩という共同体の帰趨に影響を与える大事件でした。夏みかんは、経済発展の源流でもありましたが、同時にそんな悲しい歴史とも重なるシンボルでもあったのです。
以上、イベントに、「萩の熊谷家」そして「夏みかん」を選んだ背景をご披露させていただきましたが、あたかもこれに時期を合わせるように、この地域が日本の産業革命の源流であることに注目した形で世界遺産への登録が内定したとのニュースが入ってきましたが、誠に慶賀の至りであることを申し添えて、ご挨拶に代えさせていただきます。
第二部 パネルディスカッション: 玉木文之進正韞とその家族
吉田松陰は、遺書「留魂録」を通じて、自分の思いを残された者たちに託しました。彼の考えは純化され、それは自由主義、民主主義に親和的な先進的な思想に至っていたようにも読めます。しかし、松陰から思いを託された人たちが、果たしてその理念や思想を理解していたのでしょうか。特に、松下村塾を開いた玉木文之進の思想は、その年代や育った環境からもまた違うところにあったのではないか、と私は考えます。私の旧姓は玉木で、系図上は文之進の玄孫に当たることもあり、幕末・維新という近代史探究という以上に、自らの家族史を見極めたいというところから、強い関心を持って調べ始めておりますので、少し私見も交えつつ意見を開陳させて頂きます。分かりにくい所はお配りした資料を後ほどご参照ください。
そもそも玉木家は、江戸中期18世紀初頭、長府藩主毛利綱元公から藩医である乃木家の長男に士分が与えられたことが始まりです。[1] 玉木家の位牌を見ていると、代々、江戸勤務の者も多く、山鹿流兵学者でもあります。
ここからは憶測を交えた私見です。長州藩士の家臣団の中で大組(別名馬廻り役)という馬に乗ることを許された武士階級があります。8組あり2組が交代制で江戸藩邸、残りが萩城の警護を担当します。萩の乱に名前を刻んだ前原一誠は大組士(おおぐみし)であり、玉木文之進も小幡(おばた)高政(たかまさ)も同じでした。[2] 大組士とは中級以上の武士の家格であり、石高とはまた別の区分です。実務面の前線指揮者であり、お殿様である毛利氏や自分の領分に対する責任を人一倍教えこまれた人たちだったのです。それだけに毛利家への忠誠心は格別でしたし、武士としてのアイデンティティもしっかりとしていました。
文之進は松下村塾を開き、松陰をはじめ親族の子弟や近所の子供たちを教育したことで知られていますが、塾は無報酬であり、彼の本業ではありません。家計を支えていたのは、実は農業によります。また、実際の仕官先である毛利家の大組士としては名代官といわれ、郡奉行も勤めました。[3] 開墾や治水などにも私財を投じて尽くしたようです。今なお残っている文之進旧宅が質素な藁葺屋根なのは、加増があっても生活スタイルを変えず地域のためにも滅私奉公したからだといわれます。息子の彦助(正弘)とともに1855年黒船防禦手当係として相州(神奈川県)警備に就いており、また松陰との書簡では軍艦の必要性も説いていますから、必ずしも近代化全てに反対していたわけではありません。当時としては比較的広く世界も見ていたのですが、やはり忠義、孝行、仁政という思想により一層親和感があったのだと思います。[4] 江戸中期から国学が盛んな土壌で、武士の理想論が醸成され、のちに言われるような人物像[5] が生まれたと推察します。幕末の状況下では藩の存亡に対する危機意識も強かったでしょう。
文之進は、彼なりの松陰の遺志を継ぐという気持ちもあったのでしょう。明治2年、公職を辞し松下村塾の運営に専念しました。その一方で、萩の乱には松陰の一族である杉、吉田、玉木の跡取りが参加していたため、文之進は、明治9年11月6日団子岩の先祖の墓前で切腹という劇的な形で子弟が乱に加担した責任をとりました。[6]
それでは松陰の死後、杉家に関連する男子たちがどのような生き方をしていったのか、少しお話ししたいと思います。
玉木文之進の実子彦助こと正弘は高杉晋作の功山寺挙兵の際、太田市之進(のちの御堀(みほり)耕(こう)介(すけ))率いる御楯隊士として真っ先に参加し、長州の維新回天につながる元治2年(1865年)大田絵堂の戦いで負傷し、若くして亡くなりました。この太田市之進は急進的な攘夷主義者で乃木(のぎ)希典(まれすけ)(幼名無人)の従兄でもあります。
その前年の元治元年(1864年)玉木の宗家にあたる長府乃木家から吉田松陰と玉木文之進の関係に憧れて、乃木希典が実家から飛び出して文之進宅に起居して学んでいました。[7] 玉木彦助が亡くなった翌年の慶応2年(1866年)、希典の実弟真人は文之進に見込まれ13歳で養子に入り、元服して玉木正誼(まさよし)となり玉木家の跡取りになります。[8]
乃木希典と玉木正誼は、この萩の乱をめぐって、兄弟で別々の道を歩みます。[9] 弟である玉木正誼は、彼の若い信念により銃弾に撃たれて亡くなります。そして後年、明治天皇の崩御をきっかけに兄乃木希典は、自ら命を絶ちます。それは一見違う生き方のようにも見えますが、文之進の影響を感じないではいられません。[10]
[1] 初代の玉木政春は長府藩のご典医乃木伝庵の長男。伝庵の妻「たまき」の功績を長府毛利綱元公が認め、その名をとって玉木家を創設したといわれている。
[2] ちなみに高杉晋作、周布正之助、村田清風、桂小五郎、吉田松陰の嗣家も大組士に属す(長州家臣団)。
[3] 明倫館塾頭、吉田、美祢(みね)、舟木などの代官や郡奉行、江戸当役などを勤めた。厚狭(あさ)毛利の参謀、江戸当役、最後の公職は奥番頭。
[4] 文之進の実家である杉家は勉強熱心な一族であったようで、吉田家や玉木家と何度も養子縁組を行なっている。
[5] 「剛直」で古武士のような人といわている。松陰の「吉日録」に、文之進の人柄について「叔父は物事に通じ、考え方も老熟していて、高奇成し難きを為さず、事が自然に成るを尚(とうと)む」さらに続けて「何よりも功名家を嫌い、世人と濫りに交通を為さず、郡吏の貪欲を深く憎み給えども、唯自ら清廉を守り自然と貧の恥ずべきことを悟る如く教育する」と表現している。
[6] 杉民治本人も山代地区(今の岩国市や柳井市の山間部辺り)の代官として開墾と新田開発に尽力していたが、明治11年にやはり萩の乱の責任をとって職を辞し隠居し、明治13年松下村塾を再興し、明治23年の教育勅語で塾が閉鎖されるまで子弟教育に励んだ。こうして、当初玉木文之進によって再開された私塾は幕を閉じる。その後杉民治は今年の大河ドラマ「花燃ゆ」の主人公である妹の楫取美和子とともに萩の女学校の教育に従事する。
[7] 乃木希典は彦助たちに刺激されたのか、希典自身もその頃、長府の集童所の仲間たちと長府報國隊を組織し、奇兵隊に合流する。
[8] 玉木正誼はのちに杉民治(梅太郎)の長女である豊と結婚し、萩の乱で戦死して5か月後の明治10年3月遺腹の子として祖父玉木正之が生まれる。正之は、松下村塾を再興した高祖父民治(正之から見ると民治は祖父)のもとで他の子弟、吉田庫三や叔父の乃木集作(後年大舘集作)などとともに学び、松下村塾の閉鎖の後、明治23年東京の乃木家で育ち長じて陸軍砲兵士官。民治や希典を通じて間接的に文之進から得た影響は大きかったと推察される。
少佐として小倉に駐屯していた。前原側に与し、武器を融通するように説得に来た弟には応じず、執務室に掲げてある錦の御旗の前で天皇に忠誠を尽くすことを主張し、水盃で兄弟の決別をする。会見の内容は軍本部に逐一報告されたので、現地の情報はかなり掌握されていた。結果として、自らの師である文之進や弟をはじめその他の親族を亡くす結果になったのは、不幸なことだった。
[10] 近代化に向かう日本を生き抜いたようにみえる乃木希典も、若い時に2年間起居を共にした文之進からの薫陶大きく、晩年は中朝事実の研究にのめりこむ。幼い昭和天皇に、中朝事実を渡し君主論を示唆したのは有名。その行動原理の中心には滅私奉公が常にあった。明治天皇の崩御に際し、忠義や孝行という大義の中で文之進と同じ割腹自殺を遂げたということも到底偶然とは思えない。
日本近現代史の読書会 近・現代史カフェ
久しぶりに更新です。
日本の近現代史の新書レベルの歴史カフェを始めることにした。(19世紀中盤~太平洋戦争まで、特に明治・大正・昭和16年まで)
積ん読が多くて、精読もままならないが、日本近代史の本の量が増えた。
このブログを始めたきっかけは、まさに日本の近・現代史を振り返ることによって、自分の中からこみ上げてくる怒りを克服し(荒ぶる心)をおさめることが目的だった。
なぜ、日本は近代化をめざし、そしてそれを実現するのにどのような方法をとったか。私たちが今ここにあるのは、やはり偶然だけでなくて進む道の選択をその都度してきたからだ。
ここら辺で、19世紀中盤から太平洋戦争までの近・現代を1990年代以降の歴史研究を踏まえて、ゆるく話す読書会を開き、改めてその80年間くらいの時期を通読してみたく思っている。
研究が進んで、1980年代までの歴史認識と大分違うようなので、高校時代を1990年頃まで過ごした人、おそらく1975年より前に生まれた人たちにとって、改めて勉強したいとか、自分で読み直している方も多いのではないか。そもそも、私は受験勉強もまともにしていないので、日本史がすごく弱い。受験は世界史だったが、それさえも教科書を最後まで読み切れなかったレベルで、19世紀後半からモヤモヤモヤっとしています。その後、ヨーロッパ史についてはベーシックなところは読み直したのですが、映画をみても、日本の映画になると今一つよくわからない。時代小説はあまり好きではなく、ノンフィクション専門で、主に新書レベル。たまに、学術レベルのものも、ある程度知っている時代については読む。
そうはいっても、抜けが多く、知識がバラバラなので、興味のある時代の新書本があると買っては斜め読みしている。これから10年くらいの間に学び直しというか(本当は新しく学ぶ)教養を踏まえて世界の中での、プレーヤーとして、日本がどのような役割や選択をしていくのか議論出来るレベルになっていたい。
今、考えているのは月1回、1時間半程度。参加者は3名~15名までで、特定の新書を共通素材として20分くらいの基調報告を参加者の一人や主催者がして、1時間程度意見交換をするというもの。新しく研究されたものを映画やテレビドラマ・小説などで喧伝されているものから離れて過去を知るというのが目的なので、根拠のない史料の発表や妄想はタブーとする。参加者は一人で時間を独占しない。一話完結式。 勿論関連する読書は各自で自由に知見を深めて欲しい。一回ではまとまりきれない内容はお互いにSNSやペーパーなどで共有することで補う。
その後は懇親会。歴史散策や旅行なども、興味があれば行う。年1回くらい講演会を企画するのもいいかもしれない。
一人で散漫に読んでいるのと変わらないが、テーマごとに意見交換するのは、自分にとっても頭の整理や気づきがあるのでやってみたいことだ。
目的は、知的好奇心を満足させることで、学びを楽しむことだ。 お互いの能力を競うことではない。方法論はいろいろあると思うので、試行錯誤しながら楽しく続けられるよう決めていきたい。
もう一つの松下村塾 敗北
無断転載は固くお断りいたします。
明治9年10月6日に書かれた乃木希典の詩を写す。悲しい歌だ。
昨日は曾祖父正誼の命日であり、もう一つの松下村塾の無残な敗北の象徴である玉木文之進の自刃の日11月6日も近づいてきた。
時来ぬと籠にすたく虫の音も
物あわれにそ聞かれぬるかな
みな人のたのしくや見ん望月も
心さみしくなかめられけり
なく虫はうきもたのしもかかたぬを
個々をさむしく聞く人もかな
ものすこき秋のなか夜の夜もすから
夢むすひえぬ人そ物うき
こそのあきたのしくまちしきょうの月を
我心より物うくそみる
こそよりもことしの秋は物うけれ
又くる年はいやまさるらん
(原文では平仮名ではなく片仮名で記述されているが、それ以外は原文のまま)
吉田松陰=松下村塾が一般に定着したイメージだが、当初玉木文之進が江戸詰め勤務ののち萩に戻った無役の時に始めたものが発祥である。近くに住む子弟を教えた玉木塾には松陰や兄の梅太郎も通っていた。文之進が公務についた後中断。その後、松陰からみて外叔父にあたる久保五郎左衛門が松下村塾の名前を譲り受け、その時は寺子屋程度の学塾だったらしい。
松陰が安政3年(1856年)3月、幽閉して親戚を中心として密かにはじめられた授業が、野山獄に再びはいるまでの安政5年(1858年)12月までの2年10か月の間の前後に断続的に受け継がれ、明治に入っても主に親族の玉木文之進そして最後は杉民治によって明治25年(1892年)の閉塾に至るまでの複雑な歴史をもっている。
繰り返し、過去にも述べているように、私にとっての最大の関心事は、なぜ松陰以降の松下村塾があまり知られていないのか、なぜ玉木文之進は自刃することになり、それが、唐突に明治の終わりの乃木希典に繋がるのか、自分の仮設の実証をしておきたいということになる。今までタブーとされてきたものにあえて動いているのは、維新の多くの不都合な事実や矛盾が如実にこのもう一つの松下村塾の中に隠されているからだ。
関係者の口が重く、今や忘れ去られてしまう前に、萩の乱で亡くなった曾祖父や吉田小太郎の短い人生について顕彰してあげたいという気持ちが強い。
松下村塾の歴史については、海原徹の著作を参考にし、また、各関係者の日記等も確認しながら整理していきたい。
明治5年(1872年)正月に玉木文之進が再開した松下村塾は、天保3年(1842年)、現在の玉木文之進旧宅で一番最初にはじまった場所で再開された。この玉木文之進旧宅として覚えられている玉木宅は早世した吉田大次郎(文之進の兄で、松陰の養子先)の空き家になっていた家であった。
祖霊祭 乃木家 10月30日 そして誰もいなくなった
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赤坂乃木神社の敷地内には乃木家祖霊社がある。
乃木家の墓は青山墓地内にあるけれど、神社の中にあるのは御霊をまつるところなのだろう。墓前祭ではなく、祖霊祭が毎年10月30日に行われている。明治10年10月31日の乃木希次の命日にあわせて設定されたそうだ。
また、社殿の脇には正松神社という玉木文之進と吉田松陰を萩から分霊して昭和38年に建立した小さな神社があり、そちらの祭礼をまず行い、次ぎにこの戸外の祖霊社の前で祖霊祭を行っている。
繰り返し書いているように、この祭礼に参加するのは2013年以降で、その前は乃木希典の自刃が9月13日、この乃木家祖霊祭が10月30日、他に松陰の命日の大祭が9月27日と多くの行事が一ヶ月の間に何度もあり、何がなんだかわからなくて、就職以降平日でもあり参加することはほぼなかった。
参加しないと決めるとプツッとやめる、始めると決めると絶対に参加するという自分の性格をなんとなくもてあましてしまうが、2013年以降は、乃木神社には先祖のことを思い出すという意味で一回も休まずに参加している。
乃木家は乃木希典が勲功伯爵を一代限りで終わりにしたかったので、遺言により血縁者が次ぐことはなかった。ただ、乃木家の祖先の霊をお祀りする人がいなくなることを心配し、血族の続く限り、祖先の墓を守るように、と遺言したという。
乃木家の中で成人に至った兄弟は、玉木正誼、大舘集作。姉妹は小笠原キネと長谷川イネ。
正誼は玉木家に、集作は晩年、大舘家に養子に行った。
玉木正誼は萩の乱で戦死、一人息子の正之は、13歳から乃木家で育てられ従兄弟たちと同じく陸軍士官(砲兵科)になり、日清、日露にも従軍したが激戦地にはいかず生存した。
乃木家の勝典、保典は日露戦争で亡くなっている。明治10年生まれの玉木正之と勝典、保典はそれぞれ2歳違いだ。
そして、大舘集作も、昭和2年亡くなった。明治17年に集作の息子は早世しているので、乃木家の男子の系統は玉木正之一人になった。
今回集まった乃木家の親族は5人。玉木の関係者は私一人。小笠原関係者や長谷川関係者が4人。
玉木、小笠原、長谷川の子孫は全部で300名近くいるようだが、祖父母や親ができるだけ祭礼に参加していたことを覚えている人が少なくなったり、私のようにピンと来なかったとか、ともかく大正・昭和・そして平成の世も来年までという時の風化を感じざるを得ない。
いつも思うように、自分の生活がきっちりと成り立たないと、過去を振り返る余裕は出てこないのではないか。
今日は珍しく、初めてお話するかたたちと乃木さんの評価の毀誉褒貶について話しを交わした。
朝、ふと思い立って、平成6年に刊行された乃木希典全集をぱらぱらめくってからでかけたので、あれこれ話しをした。この5年で、どうやらそこに同席した誰よりも乃木さんについて詳しくなったようだ。
そして、またこの全集の解説など読んでいたら、どうやら史料の出所が私の家だったことが書いてあり、やや驚いた。そもそも乃木希典全集は欠落していた部分の多かった日記を祖父が筆者していたものを赤坂乃木神社に伯父が奉納してあった。これは乃木希典日記を公刊しようと準備していたようだ。
また、所蔵していた過去の日記集の中にも散逸して欠落していたものも出てきたらしい。
近代政治史も学部で習っていたのに、どうして避けて見ないようにしていたのか本当に若気の至りだ。司馬遼太郎を読んでは鵜呑みにしていた。
松陰が玉木彦助に送ったの士規七則の版木や、中朝事実の出版権などもそれぞれ伯父や父が持っていたらしいことも自宅の資料を整理していたらわかったりした。
興味を持ったときに手元から離れてしまっていたこと、本当に身近なものだったはずのモノ、コトが多く自分の近くにあったことに気づく。
今、改めて知ることができることは記録に残すことの必要性を感じる。そして、人とのコミュニケーションをとることの大切さも含めて。