吉田松陰の墓と松陰神社 2

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二、萩の墓

萩では万延元年(1860)2月7日が松陰の百ヶ日に当たり、生家の杉家で百日祭を営み、護国山団子岩の吉田家墓地に遺髪を埋葬することにした。

正月30日に久坂・高杉をはじめ門人10人があつまり墓碑建設を相談し、当日親戚・門人等は故人の霊を弔い、遺髪を埋葬した。

会葬した門人は久坂・高杉・中谷正亮・久保清太郎・佐世八十郎(前原一誠)・岡部富太郎・有吉熊次郎・福原又四郎・作間忠三郎(寺島)・品川弥次郎・松浦松洞・増野徳民・天野清三郎(渡辺嵩蔵)・時山直八・玉木彦介・馬島甫仙・国司仙吉・山田顕義・瀬能百合熊等。入江杉蔵・野村和作(靖)は獄中、吉田栄太郎(稔麿)は思うところがあり欠席。

墓碑は同月15日で自然石の表に「松陰二十一回猛士墓」裏に「姓吉田氏・称寅次郎、安政6年巳未10月27日於江戸没、享年30歳」と彫られている。

一対の石灯籠には門人の名前(久保久清・佐世一誠・久坂誠・岡部利済・福原利実・中谷実三・高杉春風・有吉良明・天野一貫・作間昌昭・時山済等)、花立には伊藤和郷・入江政・野村旨糸采、水盤には松浦無窮・増野乾・品川、小さな花立には杉家妹中と彫られている。


昭和41年6月萩市内有志により「松陰先生の墓を守る会」が結成され(当時の会長豊田正)、毎年墓所の清掃や萩市仏教団の協賛により墓前祭を執行している。昭和47年2月9日萩市は「吉田松陰墓ならびに墓所」を史跡に指定した。

吉田庫三、吉田大助・くま、杉艶子、杉小三郎の5つの墓があるほか、門人高杉晋作吉田稔麿、阿座上正蔵、馬島誠一郎、口羽良純、久坂玄瑞の墓、他に親族の杉家、玉木家、児玉家久坂家の墓がある。

上記冊子よりほぼ全文抄訳

追記:吉田松陰の墓および親族の墓に墓所は、現在も杉家の私有地である。また玉木家私有地であった区分は、現在松陰神社の所属管理になっている(永代供養をお願いした)。したがって、こちらの墓所は私有地であり、市民のものではないことを強く主張する。吉田松陰の墓を守る会の認識として、松陰の墓だけが大事であるかのように主張されたことがあるが、末裔にあたる親族やその他の人達にとっても大事な家族の場所であり、その墓所としてのとらえ方に、松陰を敬慕しすぎるために理解に齟齬があり誹謗中傷された事実があったことを非常に残念に思っている。この件についてもし異議がある場合には、より詳細に事実を丁寧に家族の権利を主張するものである。