吉田松陰の墓と松陰神社 

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吉田松陰の墓や神社の由来についてあまり知られていないが、年末に約35年前(昭和50年)にまとめられた小冊子をみつけた。

当時、萩の郷土文化の編纂に熱心であった、田中助一氏(明治44年生、医師、郷土史家、当時松陰神社総代)がまとめられたもので主なことを編年的に書いてあり信頼がおけるものだと思われるので、ここにまとめておくことにする。

1.東京の墓
松陰の処刑
松陰は、安政6年(1859年)伝馬町の獄にいれられた。二回の取り調べののち、死を覚悟した松陰は10月20日門人の飯田正伯(藩医)、尾寺新之丞に手紙で死語の処置を依頼した。
10月26日夜、藩邸で周布(すう)政之助は尾寺に翌朝評定所で松陰の判決があることを告げていた。

尾寺は飯田を誘い、評定所の門前の露店で、重罪人が伝馬町に送られたことを聞き、伝馬町の獄卒金六から松陰が四ツ時(午前10時)に処刑されたことを知った。

牢役人から遺骸を下げ渡してもらうことを、金六にとりなしを頼んだが牢役人は二度の嘆願を聞き入れなかった。飯田は、29日に直接牢役人に面会し懇請した結果、「牢の中で屍体の処分に困っている」ということにして小塚回向院で渡すと約束した。


埋葬
桜田藩邸(長州藩上屋敷)に行った飯田と尾寺は桂小五郎、伊藤利助(博文)にこれを伝え、大甕と大石を買い回向院に赴いた。すでに桂と伊藤がついており、4人で四斗樽を渡してもらい、あけたことろ、髪は乱れ、血が流れ出ており、素裸にしてあった。
飯田は髪を束ね、桂と尾寺は手酌で水をかけ血を洗い落とし、切られた首を胴につけようとしたが、役人から「重罪人の屍は他日検屍の可能性があるので、首をついだことがわかると罰を受けるのでそのままにしてもらいたい」と告げられた。
飯田は黒羽二重の下着を、桂は襦袢を脱いで体に着せ、伊藤は帯をといてむすび、首をその上において、甕におさめ、先に葬られていた橋本左内の墓の傍に埋め、その上に大石を置いた。


墓碑
11月7日に飯田・尾寺等は六尺余の大きい墓碑を建てたが、幕府に遠慮もあり、両側面に彫る予定だった辞世の詩や和歌は来週になって彫ることとし、正面に3行「安政巳未十月念七日死、松陰二十一回猛士墓、吉田寅次郎行年30歳」とだけ彫らせた。
詳細は、11月15日付けで飯田・尾寺が国元の高杉晋作・久保清太郎(断三)・久坂玄瑞(義助)等宛ての埋葬報告書に書いてある。

しかし、幕府は、院内の志士の墓碑をこわしたので、松陰の墓碑も取り除かれた。4年後の文久二年(1862)8月萩毛利家(長州藩世子)毛利定広(元徳)が朝廷よりの死者大原重徳(しげとみ)と共に天皇の意向を幕府に伝えた文中に「戌牛(安政5年)以来罪を国事に得た者をゆるし、死者の罪名を削るように」とあった。久坂等は幕府の了解を得て、墓碑を建て直し、久坂が揮毫した碑銘は、今日も回向院に残っている。

改葬
高杉等が熱心に改葬を唱えた。「小塚原は刑死者を埋める穢汚(けがれ)の地で忠烈の骨を休んずべき所ではない」という理由だ。藩の許可を得て、荏原郡若林村の大夫山に移すことになる。

延宝2年(1674)、二代藩主毛利綱広が、旗本志村勘右衛門の采地内の農民の土地を買い火災の避難地にしたもので地勢が丘を成し、林際に別邸があったので、長州藩主の通称である松平大膳大夫にしなんで、「だいぶやま」(または長州山)と称した。

頼三樹三郎頼山陽の息子)と小林民部(公卿鷹司家士)を改葬することにした。高杉晋作、堀真五郎、伊藤利助、山尾庸三、白井小助、赤祢武人、遠藤貞一が主宰者となり、山尾・白井が前日に小塚村で準備をととのえ文久3年正月5日朝、3人の墓を掘り遺骨を新棺に納めた。

門人や知人が棺にしたがい、高杉が騎乗で先頭に進み、上野山下の三枚橋の中橋を渡ろうとしたときに、万人が列を止めようとした(将軍が東叡山参拝の時に渡る橋で諸侯以下士庶人は左右の橋を渡る規則になっていた)。高杉は「我等長州の同志が朝廷の旨を奉じて、忠烈の士の遺骨を葬るのである。その途中この橋を通るのであるからどうして不都合なことがあろうか」と激しく叱ったので、番人がひるむすきに通り抜けてしまった。


改葬が完了したのは夕方だった。

数日後、松陰の親友来原良蔵(文久2年8月29日桜田邸内で自殺)の芝青松寺の墓から松陰の墓に向かって左傍に移し、同年11月笠原半九郎が友人福原乙之進(文久3年11月25日没)の墓を左側に建てた。

元治元年(1864)7月19日京都の禁門の変により、幕府は長州藩の江戸上屋敷桜田)、中屋敷(麻布)等の諸邸を没収、大夫山に火を放ち、別邸をこわし、5つの墓(松陰、頼三樹三郎、小林民部、来原良蔵、福原乙之進)を破壊させた。


修復
松陰の死後8年たち、王政復古が行われた。明治元年(1868)11月江戸在勤の内藤左兵衛が墳墓破壊につき、徳川家に抗議し、木戸孝允は藩命を受けて、土木吏井上新一郎(信一)に命じて墓碑を建て替えた。また域内に綿貫治良助(元治元年7月26日没)の墓を移築、元治甲子の変で戦死、または獄死した45人の招魂碑を建てた。木戸は墓地の入り口の両柱に花崗岩製の鳥居を寄進。徳川家からは葵紋のついた水盤一基が寄進された。
松陰の墓の揮毫者は藩士井原小四郎である。

明治2年7月整武隊長官が鳥居から墓までの参道に石を敷いた。。

その後8年11月17日来原良蔵の未亡人春子(木戸孝允の妹)も域内に葬られ、明治12年1月24日松陰の門弟野村靖も遺言により葬られた。墓石は松陰より小さく造られて、先師を敬慕して墓守となろうとしたとされる。明治44年4月14日夫人花子も合装された。

明治44年6月1日中谷正亮(文久2年8月8日没)が贈位になり、甥の桂太郎が芝愛宕下彼岸院の墓を移築した。