夏みかんと長州藩士 2015年に私が思ったこと

大変恐縮ですが、シェア不可とさせていただきます。質問等ございましたら、ご連絡ください。


今日は、やまぐち食べる通信をはじめたきっかけになった2015年萩の夏みかんまつりの時に行ったスピーチの原稿を添付する。

「やまぐち食べる通信」で県内各地をまわったからみえたこと。
やはり、ワインや日本酒や食材の地理的条件、歴史的背景、ツーリズムが一体になって自分がしたいことをずっと考えていると、循環型の世界をもう一度見つめ直すこと。

過去をみることによって、未来をどうとらえるかという近・現代史を通史で淡々と読むという計画にも、全て繋がっていると思うから。

 

当時、ぼんやり考えていたことは、その後行動に移してからより具体的になってきたように思う。

夏みかんには、長州藩から山口県に、開国した日本の近代化に向かうときに人生を転換させざるをえなかった人たちのが立ち上がるきっかけがあると思うからだ。

 

武力よりも食のほうが多くのひとを救える。これからもきっとそうだ。日本を取り巻く環境をもっと大きなピクチャーで見たときに、私たちはどんな方向を模索していったらいいのか、夏みかんは大事な地域資源だったのだと改めて思うから。

 

以下コピー


花の宴 夏みかん長州藩士 2015年5月16日(和田幸子)

本イベントを企画しました「日本の食と文化を世界に広める会」そして世界各国の調味料などの食材や自然派ワインのセレクトショップ「アニエス・レピスリー」経営の和田幸子と申します[1]。さて、このイベントでは2つのテーマが含まれています。第一に、近代史を語るとき欠かせない萩という土地、第二に、夏みかんです。萩と夏みかんの2つのテーマを選んだ理由を説明させて頂きます。

 

まず、萩を選んだ背景です。自己紹介を兼ねますが、私は、大阪生まれの東京育ちで、2009年に当店を東京の神楽坂で起業し、自分の目で厳選した食材や、日常生活を華やかに楽しくする食文化を広める、ということをモットーに商品の販売や食関連のイベントを企画開催しています。それでは今回なぜ、東京から遥か1,000キロ離れた萩でのイベントを企画したのか。それは父方の姓が「玉木」といい、そのルーツが萩だからです。[2]

親族の墓参りの目的だけではなく純粋に観光や仕事で萩を訪れる機会が2012年頃から増え出し、[3] 今では、仕事でも山口県在住の方や首都圏在住の山口出身の方たちとの関係が急速に広がっています。そうしたことから、萩でのイベント開催に至った次第です。

萩に関心が深まると、日本近代史への興味が否応なく高まりますが、日本は世界のなかでも、ユニークな文化の蓄積があり、政治史にとどまらず、生活史、地域史、産業史などまだあまり注目されていない幾つもの宝の山が眠っていると実感するようになりました。萩をテーマに選び、江戸時代の歴史を現在に伝える国指定文化財である熊谷家というこの上ない舞台でイベントを開催することにより、萩の人気をより盛り上げ結果的に山口、そして日本のブランド力を高めたいという野心もございます。

 

次に、もう一つの選択である夏みかんを選んだ背景について申し上げたいのですが、その前に幕末前後の萩の置かれた状況を振り返ってみます。「日本国」という意識、アイデンティティが明確になったのは案外新しく幕末になってからです。黒船来航など欧米列強の外圧に対抗する形で急速に「日本国」という輪郭が浮き彫りになった感があり、それまでは徳川を頂点としつつも、むしろ毛利家のような各イエが地域を治めていたわけです。今でいえば、ヨーロッパに林立する諸国という感覚だったのではないでしょうか。では、幕末時点で、この毛利家ニアリー・イコール長州藩は日本全体の中でどの程度の重みがあったのでしょうか。人口だけをその尺度とさせていただきますと、萩藩つまり山口藩の人口は、明治2年で56万人前後、日本の総人口は現在の3分の1程度3,400万人でしたので[4],[5] 日本全体に占める萩のプレゼンスは相当高かったと思います。ご高承のとおりもともと教育熱心な土地柄ですので、そのプレゼンスは人口構成比よりもはるかに大きかったのではないでしょうか。そうしたマクロ環境の中で、江戸時代には観賞用の植物にすぎなかった萩の夏みかんの経済栽培が、明治維新直後に始まりました。

夏みかんは現在、萩のシンボルです。でも維新後の長州士族にとってもすでにシンボルだったことをご存知でしょうか。夏みかんは1772年、現在の長門市青海島の海岸に漂流してきた果実だそうです。橙(だいだい)、橙樹(だいだいじゅ)、九年(くねん)母(ぼ)などとさまざまに呼ばれていました。古くは、こちらの熊谷家が接客した御膳の中にも記録が残っているとのことですので、詳細はまた熊谷家の方にお聞きください。1830年生まれの松陰の日記や手紙にも、九年(くねん)母(ぼ)や橙樹(だいだいじゅ)の記述がありますので、松陰の実家である杉家でも夏みかんを食していたのでしょう。夏みかんの歴史に関してはお手元の資料をご覧ください。

さて、明治9年、旧藩士でもあった小幡(おばた)高政(たかまさ)は、母の看病のため萩に戻り、夏橙の苗木1万株を増殖、その経済栽培を推奨しました。育てやすい夏みかんの植樹は昭和40年頃まで萩の産業の大切な経済的基盤になりました。しかし、同じ明治9年中央政府の方針に不満な士族が中心になり、前原一誠の乱とも呼ばれる萩の乱が発生しました。先ほど当時の萩藩の人口は56万人前後と申しましたが、士族はそのうち高々2万人[6] だったのですが、幕末・維新に影響を与えた松下村塾関係者にとって、同志や親族の信条や生き様の違いを鮮明にし、萩という共同体の帰趨に影響を与える大事件でした。夏みかんは、経済発展の源流でもありましたが、同時にそんな悲しい歴史とも重なるシンボルでもあったのです。

以上、イベントに、「萩の熊谷家」そして「夏みかん」を選んだ背景をご披露させていただきましたが、あたかもこれに時期を合わせるように、この地域が日本の産業革命の源流であることに注目した形で世界遺産への登録が内定したとのニュースが入ってきましたが、誠に慶賀の至りであることを申し添えて、ご挨拶に代えさせていただきます。

第二部 パネルディスカッション: 玉木文之進正韞とその家族

 

吉田松陰は、遺書「留魂録」を通じて、自分の思いを残された者たちに託しました。彼の考えは純化され、それは自由主義、民主主義に親和的な先進的な思想に至っていたようにも読めます。しかし、松陰から思いを託された人たちが、果たしてその理念や思想を理解していたのでしょうか。特に、松下村塾を開いた玉木文之進の思想は、その年代や育った環境からもまた違うところにあったのではないか、と私は考えます。私の旧姓は玉木で、系図上は文之進の玄孫に当たることもあり、幕末・維新という近代史探究という以上に、自らの家族史を見極めたいというところから、強い関心を持って調べ始めておりますので、少し私見も交えつつ意見を開陳させて頂きます。分かりにくい所はお配りした資料を後ほどご参照ください。

 

そもそも玉木家は、江戸中期18世紀初頭、長府藩主毛利綱元公から藩医である乃木家の長男に士分が与えられたことが始まりです。[1] 玉木家の位牌を見ていると、代々、江戸勤務の者も多く、山鹿流兵学者でもあります。

ここからは憶測を交えた私見です。長州藩士の家臣団の中で大組(別名馬廻り役)という馬に乗ることを許された武士階級があります。8組あり2組が交代制で江戸藩邸、残りが萩城の警護を担当します。萩の乱に名前を刻んだ前原一誠は大組士(おおぐみし)であり、玉木文之進も小幡(おばた)高政(たかまさ)も同じでした。[2] 大組士とは中級以上の武士の家格であり、石高とはまた別の区分です。実務面の前線指揮者であり、お殿様である毛利氏や自分の領分に対する責任を人一倍教えこまれた人たちだったのです。それだけに毛利家への忠誠心は格別でしたし、武士としてのアイデンティティもしっかりとしていました。

 

文之進は松下村塾を開き、松陰をはじめ親族の子弟や近所の子供たちを教育したことで知られていますが、塾は無報酬であり、彼の本業ではありません。家計を支えていたのは、実は農業によります。また、実際の仕官先である毛利家の大組士としては名代官といわれ、郡奉行も勤めました。[3] 開墾や治水などにも私財を投じて尽くしたようです。今なお残っている文之進旧宅が質素な藁葺屋根なのは、加増があっても生活スタイルを変えず地域のためにも滅私奉公したからだといわれます。息子の彦助(正弘)とともに1855年黒船防禦手当係として相州(神奈川県)警備に就いており、また松陰との書簡では軍艦の必要性も説いていますから、必ずしも近代化全てに反対していたわけではありません。当時としては比較的広く世界も見ていたのですが、やはり忠義、孝行、仁政という思想により一層親和感があったのだと思います。[4] 江戸中期から国学が盛んな土壌で、武士の理想論が醸成され、のちに言われるような人物像[5] が生まれたと推察します。幕末の状況下では藩の存亡に対する危機意識も強かったでしょう。

文之進は、彼なりの松陰の遺志を継ぐという気持ちもあったのでしょう。明治2年、公職を辞し松下村塾の運営に専念しました。その一方で、萩の乱には松陰の一族である杉、吉田、玉木の跡取りが参加していたため、文之進は、明治9年11月6日団子岩の先祖の墓前で切腹という劇的な形で子弟が乱に加担した責任をとりました。[6]

それでは松陰の死後、杉家に関連する男子たちがどのような生き方をしていったのか、少しお話ししたいと思います。
玉木文之進の実子彦助こと正弘は高杉晋作功山寺挙兵の際、太田市之進(のちの御堀(みほり)耕(こう)介(すけ))率いる御楯隊士として真っ先に参加し、長州の維新回天につながる元治2年(1865年)大田絵堂の戦いで負傷し、若くして亡くなりました。この太田市之進は急進的な攘夷主義者で乃木(のぎ)希典(まれすけ)(幼名無人)の従兄でもあります。

その前年の元治元年(1864年)玉木の宗家にあたる長府乃木家から吉田松陰玉木文之進の関係に憧れて、乃木希典が実家から飛び出して文之進宅に起居して学んでいました。[7] 玉木彦助が亡くなった翌年の慶応2年(1866年)、希典の実弟真人は文之進に見込まれ13歳で養子に入り、元服して玉木正誼(まさよし)となり玉木家の跡取りになります。[8]

 

乃木希典と玉木正誼は、この萩の乱をめぐって、兄弟で別々の道を歩みます。[9]  弟である玉木正誼は、彼の若い信念により銃弾に撃たれて亡くなります。そして後年、明治天皇崩御をきっかけに兄乃木希典は、自ら命を絶ちます。それは一見違う生き方のようにも見えますが、文之進の影響を感じないではいられません。[10]

 

[1] 初代の玉木政春は長府藩のご典医乃木伝庵の長男。伝庵の妻「たまき」の功績を長府毛利綱元公が認め、その名をとって玉木家を創設したといわれている。

 

[2] ちなみに高杉晋作、周布正之助、村田清風、桂小五郎吉田松陰の嗣家も大組士に属す(長州家臣団)。

 

[3] 明倫館塾頭、吉田、美祢(みね)、舟木などの代官や郡奉行、江戸当役などを勤めた。厚狭(あさ)毛利の参謀、江戸当役、最後の公職は奥番頭。

 

[4] 文之進の実家である杉家は勉強熱心な一族であったようで、吉田家や玉木家と何度も養子縁組を行なっている。

 

[5]  「剛直」で古武士のような人といわている。松陰の「吉日録」に、文之進の人柄について「叔父は物事に通じ、考え方も老熟していて、高奇成し難きを為さず、事が自然に成るを尚(とうと)む」さらに続けて「何よりも功名家を嫌い、世人と濫りに交通を為さず、郡吏の貪欲を深く憎み給えども、唯自ら清廉を守り自然と貧の恥ずべきことを悟る如く教育する」と表現している。

  

[6] 杉民治本人も山代地区(今の岩国市や柳井市の山間部辺り)の代官として開墾と新田開発に尽力していたが、明治11年にやはり萩の乱の責任をとって職を辞し隠居し、明治13年松下村塾を再興し、明治23年教育勅語で塾が閉鎖されるまで子弟教育に励んだ。こうして、当初玉木文之進によって再開された私塾は幕を閉じる。その後杉民治は今年の大河ドラマ「花燃ゆ」の主人公である妹の楫取美和子とともに萩の女学校の教育に従事する。

 

[7] 乃木希典は彦助たちに刺激されたのか、希典自身もその頃、長府の集童所の仲間たちと長府報國隊を組織し、奇兵隊に合流する。

  

[8] 玉木正誼はのちに杉民治(梅太郎)の長女である豊と結婚し、萩の乱で戦死して5か月後の明治10年3月遺腹の子として祖父玉木正之が生まれる。正之は、松下村塾を再興した高祖父民治(正之から見ると民治は祖父)のもとで他の子弟、吉田庫三や叔父の乃木集作(後年大舘集作)などとともに学び、松下村塾の閉鎖の後、明治23年東京の乃木家で育ち長じて陸軍砲兵士官。民治や希典を通じて間接的に文之進から得た影響は大きかったと推察される。

  

[9] 乃木希典山縣有朋の配下

少佐として小倉に駐屯していた。前原側に与し、武器を融通するように説得に来た弟には応じず、執務室に掲げてある錦の御旗の前で天皇に忠誠を尽くすことを主張し、水盃で兄弟の決別をする。会見の内容は軍本部に逐一報告されたので、現地の情報はかなり掌握されていた。結果として、自らの師である文之進や弟をはじめその他の親族を亡くす結果になったのは、不幸なことだった。

 

[10] 近代化に向かう日本を生き抜いたようにみえる乃木希典も、若い時に2年間起居を共にした文之進からの薫陶大きく、晩年は中朝事実の研究にのめりこむ。幼い昭和天皇に、中朝事実を渡し君主論を示唆したのは有名。その行動原理の中心には滅私奉公が常にあった。明治天皇崩御に際し、忠義や孝行という大義の中で文之進と同じ割腹自殺を遂げたということも到底偶然とは思えない。