もう一つの松下村塾 敗北

無断転載は固くお断りいたします。

明治9年10月6日に書かれた乃木希典の詩を写す。悲しい歌だ。

昨日は曾祖父正誼の命日であり、もう一つの松下村塾の無残な敗北の象徴である玉木文之進の自刃の日11月6日も近づいてきた。

 

時来ぬと籠にすたく虫の音も

物あわれにそ聞かれぬるかな

みな人のたのしくや見ん望月も
心さみしくなかめられけり

なく虫はうきもたのしもかかたぬを
個々をさむしく聞く人もかな
ものすこき秋のなか夜の夜もすから

夢むすひえぬ人そ物うき

こそのあきたのしくまちしきょうの月を

我心より物うくそみる

こそよりもことしの秋は物うけれ

又くる年はいやまさるらん
(原文では平仮名ではなく片仮名で記述されているが、それ以外は原文のまま)


吉田松陰松下村塾が一般に定着したイメージだが、当初玉木文之進が江戸詰め勤務ののち萩に戻った無役の時に始めたものが発祥である。近くに住む子弟を教えた玉木塾には松陰や兄の梅太郎も通っていた。文之進が公務についた後中断。その後、松陰からみて外叔父にあたる久保五郎左衛門が松下村塾の名前を譲り受け、その時は寺子屋程度の学塾だったらしい。

松陰が安政3年(1856年)3月、幽閉して親戚を中心として密かにはじめられた授業が、野山獄に再びはいるまでの安政5年(1858年)12月までの2年10か月の間の前後に断続的に受け継がれ、明治に入っても主に親族の玉木文之進そして最後は杉民治によって明治25年(1892年)の閉塾に至るまでの複雑な歴史をもっている。

繰り返し、過去にも述べているように、私にとっての最大の関心事は、なぜ松陰以降の松下村塾があまり知られていないのか、なぜ玉木文之進は自刃することになり、それが、唐突に明治の終わりの乃木希典に繋がるのか、自分の仮設の実証をしておきたいということになる。今までタブーとされてきたものにあえて動いているのは、維新の多くの不都合な事実や矛盾が如実にこのもう一つの松下村塾の中に隠されているからだ。

関係者の口が重く、今や忘れ去られてしまう前に、萩の乱で亡くなった曾祖父や吉田小太郎の短い人生について顕彰してあげたいという気持ちが強い。

松下村塾の歴史については、海原徹の著作を参考にし、また、各関係者の日記等も確認しながら整理していきたい。

明治5年(1872年)正月に玉木文之進が再開した松下村塾は、天保3年(1842年)、現在の玉木文之進旧宅で一番最初にはじまった場所で再開された。この玉木文之進旧宅として覚えられている玉木宅は早世した吉田大次郎(文之進の兄で、松陰の養子先)の空き家になっていた家であった。