祖霊祭 乃木家 10月30日 そして誰もいなくなった

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赤坂乃木神社の敷地内には乃木家祖霊社がある。

乃木家の墓は青山墓地内にあるけれど、神社の中にあるのは御霊をまつるところなのだろう。墓前祭ではなく、祖霊祭が毎年10月30日に行われている。明治10年10月31日の乃木希次の命日にあわせて設定されたそうだ。

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また、社殿の脇には正松神社という玉木文之進吉田松陰を萩から分霊して昭和38年に建立した小さな神社があり、そちらの祭礼をまず行い、次ぎにこの戸外の祖霊社の前で祖霊祭を行っている。

繰り返し書いているように、この祭礼に参加するのは2013年以降で、その前は乃木希典の自刃が9月13日、この乃木家祖霊祭が10月30日、他に松陰の命日の大祭が9月27日と多くの行事が一ヶ月の間に何度もあり、何がなんだかわからなくて、就職以降平日でもあり参加することはほぼなかった。

参加しないと決めるとプツッとやめる、始めると決めると絶対に参加するという自分の性格をなんとなくもてあましてしまうが、2013年以降は、乃木神社には先祖のことを思い出すという意味で一回も休まずに参加している。

 

乃木家は乃木希典が勲功伯爵を一代限りで終わりにしたかったので、遺言により血縁者が次ぐことはなかった。ただ、乃木家の祖先の霊をお祀りする人がいなくなることを心配し、血族の続く限り、祖先の墓を守るように、と遺言したという。

乃木家の中で成人に至った兄弟は、玉木正誼、大舘集作。姉妹は小笠原キネと長谷川イネ。
正誼は玉木家に、集作は晩年、大舘家に養子に行った。

玉木正誼は萩の乱で戦死、一人息子の正之は、13歳から乃木家で育てられ従兄弟たちと同じく陸軍士官(砲兵科)になり、日清、日露にも従軍したが激戦地にはいかず生存した。

乃木家の勝典、保典は日露戦争で亡くなっている。明治10年生まれの玉木正之と勝典、保典はそれぞれ2歳違いだ。

そして、大舘集作も、昭和2年亡くなった。明治17年に集作の息子は早世しているので、乃木家の男子の系統は玉木正之一人になった。

今回集まった乃木家の親族は5人。玉木の関係者は私一人。小笠原関係者や長谷川関係者が4人。
玉木、小笠原、長谷川の子孫は全部で300名近くいるようだが、祖父母や親ができるだけ祭礼に参加していたことを覚えている人が少なくなったり、私のようにピンと来なかったとか、ともかく大正・昭和・そして平成の世も来年までという時の風化を感じざるを得ない。

いつも思うように、自分の生活がきっちりと成り立たないと、過去を振り返る余裕は出てこないのではないか。
今日は珍しく、初めてお話するかたたちと乃木さんの評価の毀誉褒貶について話しを交わした。
朝、ふと思い立って、平成6年に刊行された乃木希典全集をぱらぱらめくってからでかけたので、あれこれ話しをした。この5年で、どうやらそこに同席した誰よりも乃木さんについて詳しくなったようだ。

そして、またこの全集の解説など読んでいたら、どうやら史料の出所が私の家だったことが書いてあり、やや驚いた。そもそも乃木希典全集は欠落していた部分の多かった日記を祖父が筆者していたものを赤坂乃木神社に伯父が奉納してあった。これは乃木希典日記を公刊しようと準備していたようだ。

また、所蔵していた過去の日記集の中にも散逸して欠落していたものも出てきたらしい。

近代政治史も学部で習っていたのに、どうして避けて見ないようにしていたのか本当に若気の至りだ。司馬遼太郎を読んでは鵜呑みにしていた。

松陰が玉木彦助に送ったの士規七則の版木や、中朝事実の出版権などもそれぞれ伯父や父が持っていたらしいことも自宅の資料を整理していたらわかったりした。

興味を持ったときに手元から離れてしまっていたこと、本当に身近なものだったはずのモノ、コトが多く自分の近くにあったことに気づく。

今、改めて知ることができることは記録に残すことの必要性を感じる。そして、人とのコミュニケーションをとることの大切さも含めて。