Double rainbow 新たな旅立ちだろうか?

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10月19日 萩・松陰神社を案内しにでかける。今年8月に山口スタディツアーと題して大学生5人と県内を縦横走して主に三か所の地域をナビゲートした。
その際知り合った慶應義塾大学SFCのOBとの縁で、今回はコンゴ民主共和国の国立教育大学から短期留学している学生2名、教授1名を一日アテンドした。

そもそも、このブログをはじめたきっかけが、日本の近代史を学ぶととともに自分の家系のことを知り、そのことをできるだけ客観的に俯瞰してみたいと思ったことだった。
そこから、どんどん思いが膨らんで、イベントを開催してみたりしているうちに、バラバラに考えていた自分のライフワークや興味がだんだん統合されていき、山口県の一次生産者の取り組みについて取材し、冊子を発行し、食材をおまけにするサービス『やまぐち食べる通信』を発行するようになった。

10年前に、食材のセレクトショップを作ったときは、我慢していた何かがプツッと切れて、10年自分で何かをやってみようという思いが強かった。サラリーマンをしていた時に思い描いていた自分で何かをおこすということは、実は人とのかかわり方を徹底的に見直すことにあった。旅行や人と会うことは好きだが、それは能動的にみえて、受容的に何かを吸収することであって、自営業なり小さなビジネスを行うのは、ある意味自分をさらし、奉仕することアウトプットすることのように振り返ってみると思う。

10年前までの自分は、できるだけ人の目に触れないように、育った東京の中で埋没していたいという気持ちが強かった。わけても自分のルーツに関して全く関心がなかったわけでもないが、目の前にあることをこなすことが精いっぱいで、例えば交流会のようなものに参加すること自体思いもつかないタイプの人間だったし、むしろ生い立ちそのものを恥と思い一般には隠していた。

大学に入学したころから、ライバル会社に転職しようとした父親が、結果的に起業しそれがうまくいかなくなり、生活が急速に不安定になり家族も大変苦労した。丁度18歳から30歳にかけては次々と事件があり落ち着かない10年になった。好きなことをして生きていくというよりも前に、毎日の生活が心配でなんとかそのバランスをとっていこうと努力していたが、社会やジェンダーの壁はまだまだ今よりも厚く20代はキャリアを模索する10年だった。
そしてついに、家は破綻し、何がなんでも自立して生きていかなくてはいけない窮地に追い込まれることになる。思い悩んで、新聞広告で外資投資銀行に転職したのが20代後半。一人暮らしもはじめた。力のなさを感じて留学したのが30歳になったとき。その後は最も不得意だと思っていた金融の世界で生きていくことになる。英語も得意ではなかったし、経済や法務の知識もなかったから、トレーニーからはじめて、実地で学んでキャリアを重ねていくことになる。何よりも、米系外資デリバティブスと呼ばれる金融工学を使った商品設計で東京マーケットに進出しだした時代で、経験者がいなかったことも幸いして、私はこれで10年は食べていけると直感的に思ったから、かなりニッチな業務の専門職に移っていくことにした。

面白い経験だったが、仕事は生きていくための手段であり、浮き沈みの激しい業界で一生を過ごすつもりはあまりなかったし、本来自分が望んでいた生き方でもなかった。古いタイプの教育を受けていたので、人と競争するという生き方がともかく負担だった。働きはじめて一番の課題は、交渉相手に対して強く出る話し方だった。自分に向いていると思って選んだのは、「やりがい」よりも「安定感」のある業務。積み重ねてできる仕事でもあった。そこでは、生い立ちも学歴も人種もジェンダーも問われない。与えられた仕事に対して成果を出せばよいので社内ポリティックスも営業力もそれほど必要がなく、なんとなく嫌われない感じの人当たりであれば、特に問題視されない、設計した商品の概要をフォーマットにしたがって打ち出してくれる便利な機械みたいな存在だったと思う。業界団体のミーティングに積極的にでるというタイプでもなく、できれば透明人間になりたい気持ちが強かった。子供の時からそうだったのか、それとも環境的にそうなっていったのか、そういう人になっていた。

東日本大震災がきっかけで、日本人である自分を意識するようになったのは、私一人だけではないと思う。
日本人として生まれ育ちながら、日本のことを知らないことにちょっとコンプレックスもあったし、特殊な業界にいたために、日本的な村社会から逃げ続けていたこともある。また実家の玉木家の構成要素として存在していたにも関わらず、娘であること、家を続けるということなどの空気のような期待に沿えるタイプでなかったこと。自立することと、家族の中で便利な存在になることは両立しなくなってしまった。家族がバラバラになっていく過程で、深く傷ついき、居心地の悪い場から逃げていたことが最も大きな要因だ。親や祖父母、あるいはもっとずっと前の世代の人たちにとって、その家が絶えた(そういう強迫観念を伯父は思い宣言していた)ということは、事情として仕方のないこととはいえ、大人としてきちんとしたコミュニケーションを親たちととらなかったこと過去の自分も不甲斐なかったのかもしれない。そういう強いネガティブな気分を一掃し克服したかったのだと思う。

様々な状況から、『関係ない』と思っていた神社や地方との関係性を構築することになったのは、自分が大人の立場になっていたことにきづいたからである。
『必要ない』ことなのかもしれないし、『関係ない』ことかもしれないが、自分自身を一つの組織のパートとして考えると、そりのあわなくなった伯父の死は(成人後に伯父と養籍関係があり)やはり子である自分がある一定の役割を果たすことにあるのではないか、と気持ちが動いたからだ。

子供のいなかった伯父にとっては、大人になるにつれ、言うことを聞かなくなった私は、彼の望むタイプではなかった。そして結婚したことで、和田姓になったことは面白くなかったのだろうが、その後の一連のやりとりや、考え方は、私としては人として許せないことであり、関係はそれきりになっていた。

私にとっては『関係ない』玉木という家の問題は、改めて自分事なのだということが、新たな自分のトラウマになってしまう結果になるのではないか、と多分そのとき思ったのだろう。葬儀をきっかけに15年ぶりくらいに会う親戚や、親族の人たちに会ったこと。絶対に参加したくないと思っていた葬儀を自分が行っているということ、ほとんど処分されていた荷物を整理しだすと祖父の時代からの写真や何度も整理してきた系図をたくさん見た。作者から寄贈されたであろう『松陰』や『乃木希典』に関する書籍なども面白そうなものを読んでみたりもした。

それ以来6年にわたって、山口県人会や多くの集まりに参加し、山口県の出身者や地元の地域プレーヤーとも知り合いになる。何度も通うようになることで、幕末から大正時期に至るまでの家族の歴史を急速に知ることになる。

この数年、急激にそれらの関係が蓄積され、山口通になってきた。しかも、むしろ個人的に東京のよそ者が通って育てていった関係から生まれたものだ。
自分がそのようなアプローチをとったことは、過去の遺産(知名度などを利用することなく)に頼ることに自分なりの反発心があったからだ。しかしながら、通う頻度が高くなっていく過程で、先祖たちが辿った道にふと出くわすこともあり、人との関係性からは逃れられないことになんとも言えない気持ちになることも多くなった。

萩の松陰神社や世田谷の松陰神社、そして赤坂の乃木神社は、私にとっては親戚のあつまるところ。特に祖父は明治10年生まれで一人っ子だったから、まだ幕末から明治に変わった時代に生まれた申し子のような人だったらしく、玉木文之進旧宅で生まれ、祖父の杉民治に12歳まで育てられ、乃木希典宅で従兄弟たち(勝典、保典)と一緒に育ち、軍人になった人だったのでその神社の成り立ちには深くかかわっている。自宅も萩の松陰神社と隣接しているし、東京の自宅も松陰神社のすぐ近くに居を構えていた。親たちにとっては自分の家(あるいは庭)に等しい存在だったようだ。乃木家、玉木家、そして乃木家の末弟である集作さんとの関係も含めて、玉木の祖父は乃木家玉木家大舘家の唯一の生き残り男子になったからだ。伯父や父もその流れで自分のことを特別な存在のように思い込んでいったように、特に伯母たちのような家族の中の価値観で育った人たちにとっては、そういう意識は本当は強かったのではないだろうか。

実際、私もそのように思って育った。末っ子の次男のところに遅く生まれた待望の初めての内孫(残念なことに女児だったが)だったから、成人するまで私や弟は祖母に大変大事にされた。サラリーマンの父の給料では支払えない、裕福な子弟が通うカトリックの私立の女子校の学費も祖母が出してくれたと聞く。若い頃はわがままだった祖母が自分の生活を倹約して払ってくれた。同窓生はその時代にあるいわゆる著名な家柄の人や裕福な人が多かったから、質素なサラリーマン家庭の子供は目立たないように過ごしていた。

祖母が亡くなり、また実家が崩壊していく過程で、『家の娘』から『自立した大人』になっていくうちに、玉木に関係している場所やコトは、触れたくないものになっていった。職場が乃木神社から10分程度のところにあったのにそれに気づかなかったほどだ。今振り返ってみると、極度のアレルギー症状になっていて、その場に立つと嫌なことをフラッシュバックのように思い出した。


ところが、今回は、日本の近代化を考えるときに山口を見たいという若者たちに松陰神社と明倫学舎を案内してほしいというお題をいただき、いつもだとちょっとネガティブな感情がおこるのに、喜んでボランティアに受けた。世間で言われる賛美とは別に客観的にそこを案内したいと思ったのだ。だから一週間くらい、何が日本の近代化のインフラだったのかを考え、人口問題、教育、経済、外国語、防衛などに関連して自分の知っている限りで話をしてみた。

吉田松陰の話はほとんどしていない。神社が何かを知らない人にも、日本のカルチャーを少し説明したつもりだ。

丁度、松陰神社の鳥居のところでしめ縄の説明をしていたとき、虹を見たのだ。
夕方の時間帯で、周囲にあまり人がおらず、何か霊的なものも感じた。カトリック教徒のオサムやダヴィたちも『虹って何か意味があるんだよね』とお互いに話していた。

そのときは、そのままにして、正松神社のことなど考えていたりして予定をこなしていった。

戻ってから気になって、虹のことを調べていたら、やはり虹にはスピリチュアルなものがあると考えられていた。
そもそも、自分の気持ちがかなり客観的になっていて、すっきりしていたこと。前回学生たちと松陰神社を訪れたときに上田名誉宮司が語っていた『強赦(キョウジョ)』ということの意味にも反応していたこともあり、キリスト教の『赦し』に通じることを感じていたこと。

私にとっても、コンゴの未来にとっても、『良いこと』そして多くの人たちの協力があること、自分の気持ちに『赦す』という感情が芽生えたこと。
ある意味、私にとっては一つの『苦しい旅』が手放すことで終わったのかな、という思いが生まれたことが大きな自分の中の変化にもなったようにある。

しばらくブログでの発信を控えていたが、この『二重の虹』を松陰神社コンゴの若者たちと見たという『天からのメッセージ』をきっかけに、新しい形で再開しようと思う。