偉人のかげに ③ 那須野と品川弥二郎との関係

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写真は、台湾総督に希典が行く前の家族写真かと思われる。右端から、集作、希典、母寿子、勝典、保典、静子夫人。

 

現在那須乃木神社があるところは希典が別邸として購入したところで、遺言により大舘集作が譲られ、移り住んだ場所である。

 品川弥二郎吉田松陰門下生では最年少だったが、松方内閣下で大臣の時、ドイツの土地利用に感銘を受けた。明治20年前後、荒野だった那須近郊を開墾造林することに、西郷従道大山巌松方正義を説き伏せ、長府毛利家、山縣有朋なども乗り出した。

 品川は地元の有力者を説得し、不毛地開墾に協力を求め、旧藩士達も帰農して開墾に勤めた。希典の妻静子の伯父にあたる吉田清皎の農地を、希典が未亡人から買い受けたのがその地である。同じころ共懇者(豊浦農場)で集作も農事に従っていた。

 昭和26年品川弥二郎子爵の姪で品川弥三の四女里子と結婚した。しかし、子供の十郎が生まれた前後に離婚した。弥三氏も那須野の開墾に参加し、その子孫は現在も那須野に居住されている。少し大きくなってから、十郎は乃木家で育てられ、学習院に通学していたが、後年日露戦争の前後に10歳で急な病で亡くなる。

 集作は十郎の生まれる直前、日清戦争の従軍を希望し兄に許可を得る書面があるが、それはなぜか果たされなかった。

 母寿子は明治29年11月希典が台湾総督の赴任に従い、赴台するが、すぐにマラリヤに罹り12月に没した。遺志の通り、台北に埋葬した。