「偉人のかげに」 ①乃木希典の父希次と兄弟の別れ

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大舘という名前は、乃木希典の末弟の集作が、兄希典の探してきた長府藩の旧藩士大舘甚五左衛門氏と養子縁組した。それは、希典自身が自分の死後断絶する意思があったので、功績のないものが爵位を継承することを恐れたからだった。

大舘集作は長門国長府横枕にあった家(現長府乃木神社内)で生まれた。長府藩士乃木十郎希次と常陸国土浦藩士長谷川金太夫の娘寿子との7人兄弟の末子。前妻との男子二名は早逝したので、乃木希典が三男、曾祖父玉木正誼が四男、大舘集作五男である。

 

「偉人のかげに」昭和39年刊の私家本を書いたのは、玉木正誼と大舘集作の間の妹イネの息子長谷川栄作 - Wikipedia 夫人の長谷川君江氏。義姪として集作の晩年を知っている。また、親族のことについても詳しい。

 

 代々乃木家は定府といって、江戸藩邸内に住んでいた。寿子の父の土屋(土浦)藩邸は神田小川町にあり、長府藩毛利元運公の内室は土屋相模守彦直の姫で、縁故から成り立った再婚であった。

 希次は本藩萩の乃木分家から養子縁組をしている。乃木家は代々医業だったが、希次は武芸を好み、文化十三年12歳で深川三十三間堂の弓術試験の当し矢に立派な成績をおさめたので、毛利元義公の激賞するところになり、百五十石の馬廻り役に列せられた。

 武芸及び礼法に長ずるところから主家の躾方と諸子の礼法師範となっていた希次は、元運公の息女銀姫の養育補導にあたり、萩藩毛利家の世子夫人として輿入れする際の儀式一切をつかさどり婚礼をすませた。

 しかし、その後士風についての提案書を提出したところから、藩主の怒りを買い、長府へ引籠りを命じられた。長府に戻るまで、また戻ってからも大変厳しい時代があった。その当時、大変忠義な勝谷栄三郎(長助)氏がただ一人、苦楽を共にされたということをまた最近知った。今年に入り、ご子孫から伯父のことで手紙と香典を頂戴し関係を知った次第。

 死罪は免れたものの、禄高は三分の一になり職も失った乃木家では、妻寿子が江戸風の煎餅を焼き、それを勝谷さんが売っていたこともあったという。その後、希次の評判から礼式師範の命があり、ようやく長屋門の一棟に移り住むことになった。

 集作が生まれる前から乃木家は禄高も百石になり、貧乏からは救われたが、世の中は維新で急速に変化していった。明治二年から希典は伏見御親兵兵営に入隊し、フランス式教練を受け、御堀耕助の紹介もあり、明治4年には陸軍少佐に任命されている。正誼は萩の玉木文之進の養子になった。

 明治7年7月名古屋鎮台在勤を解かれた希典は、父母弟妹を引き連れて東京に帰り住むことにした。麻布笄町から、麻布永坂、京橋檜屋町へ移った。

 明治8年になると不平武士の勢いが強くなり、萩の一部の士族たちも例外ではなかった。前原一誠正誼は熊本鎮台歩兵第十四隊長として、小倉にいた希典に再三協力を求めたが、最終的に希典は正誼と兄弟の縁を切ってたもとを別った。君国に尽くす大義名分を説く希典に対し、正誼にもまた名分があり固執して聞き入れなかった。

 一説にはその時、この御旗に対して自分を忠誠を誓うと指した軍旗が、西南の役で奪われた軍旗だったといわれている。

 

 みな人のたのしくやみん望月も

  こころ淋しくながめられけり

 

 こぞの秋たのしくまちしけうの月を

  わがこころよりものうくぞみる

 

 ものすごき秋のなが夜のよもすがら

  夢むすびえぬ人ぞものうき

 

 こぞよりも今年の秋はものうけれ 

  又くる年はいやまさるらん